剣山山頂から続く尾根の景色です。よい天気でした。
①「私は、私の人生について、pと考えて、生きたい」
このような「個人的な人生に関する私的な人生観」の信念形式には、問題はないのでしょうか。
実は、問題があります。以前にも述べたことですが、もしこのpの内容が道徳や法律に反するときには、pは他者から批判されるでしょう。その批判が正しいかどうかを別にして、個人的な人生に関する私的な人生観であるとしても、他者から批判されることはありえます。
では、そのとき批判された人(Xさんとします)は、どのように答えることになるでしょうか。Xさんに可能な態度は、②についての考えたときと同じく、次の二つに一つです。
1、「私は、pについて議論するつもりはなかったのですが、あなたの反論は
間違っていると思うので、答えましょう。」
このように答えるならば、Xさんは、pを私的な人生観としてではなく、人生論として扱っていることになります。
2、「私は、pについて議論するつもりはありません。たとえあなたの反論が
正しいかどうかを自分で吟味しようとも思いません。私はpを信じていま
す。」
私的な人生観①の表明が可能であるためには、この2の返答が可能でなければなりませんが、これは整合的な態度でしょうか。
これは整合的な態度ではない、というのが、人生観②について考察したときの結論でした。では、人生観①の場合にはどうでしょうか。答えは、pの内容に依存するようにおもわれます。
例えば、もしpの内容が道徳や法律に反するものだと批判されとすると、その場合には、上の2の態度をとることはできません。1の態度をとり、pが道徳や法律に反しないことを弁明する必要があります。
しかし、例えば、もしpの内容が、「画家としてすばらしい作品を描くことが私の生きる意味だ」というものであるとするとき、「他者が、画家で成功する人はまれなのだから、あなたの才能なら、やめたほうがよい」、とか「あなたは、画家より、数学の才能方法があるとおもうので、数学者になったほうがよい」とかの批判であるとすると、それに対しては、Xさんが2の態度で答えたとしても、そこには不都合はないとおもわれます。
2の返答が可能である場合と不可能である場合のpの内容の違いを、上のような事例で示すのでなく、一般的に定義できるとよいのですが、・・・
うか。