ちょっと行き詰まっていますね

ここまでの議論が間違っているとは思いませんが、これではまだ区別が曖昧ですね。
議論と会話の違いをもっと明確にする必要があるようです。

区別の最も重要な論点は、理性的に議論できることと、できないことを、明確に区別できるかどうかと言うことだと思います。

しかし、このような区別の立て方が曖昧なのだとおもいます。議論できることとは、議論できる問題です。ある命題が議論できるとは、「ある命題pが真であるかどうか」という問題を議論できるということです。議論できる問題であっても、答えられる問題とは限らないし、議論できない問題であっても、まったく議論できないとは限りません。

議論できる問題と議論できない問題の区別は、正確に言うと、どこまで議論できるかの違いなのです。もし、最後まで議論できるかどうか、つまり理性的な議論で答えにたどり着くかどうか、を基準にするならば、すべての問題は、最後まで議論できない問題になるでしょう。なぜなら、ミュンヒハウゼンのトリレンマによるならば、どのような命題も、究極的な根拠付けはできないはずだからです。たとえば、「ある命題pが真であるかどうか」について、「それは真である。なぜなら、qならばpであり、かつqであるから」と答えたとすると、次には「qは真であるのか」と問われることになるでしょう。そのようにして、問いは際限なく繰り返されうるので、pが真であることを保証することはできません。

では、他に区別の基準を提案できないでしょうか。
問いの前提の正しさを前提したときに、答えられる問題と答えられない問題を分けるという基準はどうでしょうか。
「xさんは離婚したのか」という問いは、xさんが結婚していたことを前提しています。もしこの前提が間違っているのならば、この問いは、無効です。この問題を議論しているときには、この前提の正しさを認めています。もちろん、議論することによって、問いの前提がおかしいことに気づくことはありえます。そのときには、問いを修正して、議論をやり直すか、問いを無効だとして議論をやめるか、どちらかです。いずれにせよ、問題は変化するので、これまでの議論は中止になります。究極的に根拠付けられた答えをえるとは、このような問いの前提についても、その正しさを根拠付けることを要求しています。我々は、問いの前提の正しさを前提したときに答えられる問題と答えられない問題を分けることができます。しかし、この場合にも、根拠を尋ね続ける作業は、問いの前提を問うことを避けるとしても、際限なく続けることができるのではないでしょうか。そうすると、この区別もまた、役に立ちません。

では、他の区別の提案はないものでしょうか。
ある論理体系を前提して答えられる問題と、答えられない問題に区別するのは、どうでしょうか。
この区別は、問題によっては有効かもしれませんが、人生に関する問題の場合には、おそらくあまり有効ではないでしょう。

ある信念体系を前提して答えられる問題と、答えられない問題に区別するのは、どうでしょうか。
これは役立ちそうです。ではどのような信念体系を、前提するのが適切でしょうか。

投稿者:

irieyukio

問答の哲学研究、ドイツ観念論研究、を専門にしています。 2019年3月に大阪大学を定年退職し、現在は名誉教授です。 香川県丸亀市生まれ、奈良市在住。

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