認識論的個人主義とは

共有知の存在証明に取り掛かりたいとおもいます。

唯物論であれ、二元論であれ、観念論であれ、すべての意識ないし思考は、個人の意識ないし思考であるとしましょう。この立場を「認識論的個人主義」と呼ぶことにします。なぜなら、このときには、全ての認識は、ある個人が行っている認識であるということになるからです。
 このような認識論的個人主義では、私が見ている対象や私の思考は、全て私個人のものです。もし私がBさんと同じ部屋にいて、同じ黒板を見ているとしましょう。このこと、つまり「私がBさんと同じ部屋にいて、同じ黒板を見ている」ということは、私の認識です。私は、Bさんも、同じように考えていると思っていますが、しかし「Bさんも同じように考えている」ということもまた、私の認識です。つまり、認識論的個人主義が正しいとすると、個人が複数存在することを、想定することもまた、ある個人の想定であることになります。
ここから、「認識論的個人主義者が、他者の存在を想定することは自己矛盾している」ということを主張したいのですが、それを主張するには、まだ途中の論証を補う必要があるでしょう。

認識論的個人主義者は次のように反論するでしょう。
<私は「他者が存在する」と想定しています。もちろん、それが私の想定に過ぎない可能性はあります。なぜなら、私は、私の認識の外部に出てゆけないからです。しかし、単なる想定ではなく、実際に他者が存在することもまた可能です。もちろん、それもまた個人の想定になりますが、しかし、この想定には矛盾したところはないと思います。>

 さて、この反論にどのように答えましょうか。
 

投稿者: irieyukio

問答の哲学研究、ドイツ観念論研究、を専門にしています。 2019年3月に大阪大学を定年退職し、現在は名誉教授です。 香川県丸亀市生まれ、奈良市在住。

「認識論的個人主義とは」への5件のフィードバック

  1. SECRET: 0
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    ようするに、万人が納得し得る、正確にはそんな見解は自分は受け入れないと拒否する人たちが仮令いたとしても、客観的な真理はこうだ!!! と断言し得る「心とは何か」の説明が出来ないと、認識論的個人主義の問題は解決できないでしょう。

    例えば、各個人の心など存在せず、唯一絶対普遍かつ不変の創造主である神+自然法則+エネルギー一体不可分の働きをその中身としているただ一つの心を、万物と万人で一つに共有して使っているのであって、自分の心と思い込んでいるのは、全体でただ一つの地球の大気を自分の肺に吸い込んで使っているだけのようなものだ、という考え方。
    なお、私たちが生まれ住んでいるこの世界の成り立ちと仕組みは、唯一、創造主である神+自然法則+エネルギー一体不可分の働きを原理としてつくられている、という理解とワンセットです。
    英語は先ず最初は英語でしか理解できないことに注目

    一般法則論者
    http://blog.goo.ne.jp/i-will-get-you/
    いわゆる神の存在証明がもたらす意味について

  2. SECRET: 0
    PASS:
    『この立場を「認識論的個人主義」と呼ぶことにします。なぜなら、このときには、全ての認識は、ある個人が行っている認識であるということになるからです。』

    この定義を素直に理解すると、形式的には次のようになるかと思います。

    まず表記法について一言:
    「(x)」で「x」を束縛する全称量化、「(Ex)」で同様の存在量化を表すとします。
    すると、引用文の後半は次のように書けます。

    (x)[ K(x) -> (Ey)[I(y) & (x is y's)] ]

    ここでK(b)とI(c)はそれぞれ「bは認識である」と「cは個人である」を意味するとしました。

    では、認識論的個人主義の否定は、上の論理文の否定ではないかと考えてみることが出来ます。それは、次のものです。

    (Ex) [K(x) & ~(Ey)[I(y) & (x is y's)] ]

    すなわち、それを所有するところの如何なる個人yも存在しないような認識xについての存在主張、となります。

    以下、続きはパートIIへ。

  3. SECRET: 0
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    パートII(続き)

    言い換えれば、いかなる個人にも属さないような認識がある、ということを言っているように思えます。
    これは一体、どんな様子なのでしょうか?
    念の為に、ここで『いかなる個人にも属さない…』という下りは、『誰か或る一人の個人だけに属すのではない』という意味ではなく、そもそも『「個人」という存在者の内のどれによっても所有されない』という意味ですので、それが他の個人にも共有されているかどうかという問題とは別の話となります。「個人」ではない、「全体者」あるいは「複数者」とでもいうような存在者による認識(そしてそれは「個人」によっては所有され得ないようなもの)がある、ということなのでしょうか? そうだとすると、認識論理でいうところの、wise man's knowledgeなどと通ずる点があり、興味深く思われます。

    勿論、認識論的個人主義の「否定」を「主張」せずに認識論的個人主義を批判することも可能だろうと思いますので、以上は全くの見当違いかも知れません。
    悪しからず御免下さい。

  4. SECRET: 0
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    4spaceさん、鋭い分析ありがとうございました。
    私が「認識論的個人主義」と呼んでいるものは、まさに
    (x)[ K(x) -> (Ey)[I(y) & (x is y's)] ]
    で表記されているとおりのものです。
    したがって、その否定はご指摘の通り、
    (Ex) [K(x) & ~(Ey)[I(y) & (x is y's)] ]
    となります。
    そして、ご指摘の通り、「いかなる個人にも属さないような認識がある」と主張したいと思っています。

  5. SECRET: 0
    PASS:
    長くなりすぎるので、本文にコメントし直します。

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