クマのように手ごわい認識論的個人主義者
さて、前回の反論を吟味したいと思います。
前々回、私は次のように考えました。
「私は存在しない」という発話と同様に、「あなたは存在しない」という発話もまた、語用論的矛盾です。「あなたは存在しない」と私があなたに話しかけるとき、
発話行為の事実<私があなたに話しかける>と
発話内容「あなたは存在しない」
が矛盾しているからです。ここから私は、次のように議論を拡張しました。もしそのようにいえるとすれば、「私はあなたに話しかけていないかもしれない」という発話も矛盾している。なぜなら、次の二つが矛盾しているからです。
発話行為の事実<私はあなたに話しかける>と
発話内容「私はあなたに話しかけていないかもしれない」
前回の認識論的個人主義者の反論は、この後者が矛盾していないという主張でした。
彼の反論を整理しましょう。
まず、認識論的個人主義者は、よく似ている例として、次の事例<ドアを叩きながら、「どなたかいませんか」と質問する場合>を挙げて、それは矛盾していないといいました。
発話行為の事実<私は内部にいる人に話しかける>
発話内容「内部にどなたかいませんか?」
これは、質問なので、疑問文の内容と事実の主張とは直接には矛盾しないのですが、しかし、全ての疑問文は何らかの命題を前提します。ここでは、<発話者は、内部に誰かがいるのかどうかを知らない>という命題ないし事実が前提されています。
発話行為の事実<私は内部にいる人に話しかける>
質問の前提<私は内部に人がいるかどうかを知らない>
この二つは矛盾するでしょうか。
認識論的個人主義者が述べたように、確かにわれわれはこのような質問を行います。そしてこのような質問は、われわれのコミュニケーションを可能にするために非常に重要な機能を持っています。実は、私は、このような質問は、コミュニケーションを可能にするために不可避のものであるとも考えています。しかし、そのように考えるとしても、そのことから、「その質問発話は矛盾していない」という命題を導出することはできません。
さて、この発話の事実と質問の前提は矛盾しているでしょうか。(今のところ、私には矛盾しているのかどうか、よくわかりません。「なぜ、矛盾しているかどうか、というような単純な問いに、明確に答えられないのか」ということ自体もよくわかりません。奇妙なねじれがありそうです。)
この質問との類似性に基づいて、「私はあなたに話しかけていないかもしれない」という発話が矛盾していないというのが、認識論的個人主義者の反論でした。
この二つの発話の間の、類似性、については、もう少し検討の余地があるだろうとおもいます。またその類似性を認めるとしても、これらが矛盾していないといえるかどうかについてもまだよくわからない、というのが、現在の私の感想です。つまり、認識論者の「『私はあなたに話しかけていないかもしれない』という発話は矛盾していない」という反論が、正しいのかどうか、現在のところ、私には曖昧です。
これでは、反論への批判になりません。
しかし、このように分析しながら、私は、前々回の批判がすこしピントはずれであったということに気づきました。そこで、前々回の批判を、やり直すことにしたいとおもいます。
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