一昨日の日曜日、久しぶりに音楽会に行きました。
昨日の私の批判が正しければ、子供が自分を心を持った主体として理解すること、他者が自分の心とは独立の心を持った主体であると理解することは、同時です。それはシミュレーションによるのではありません。
もし、トマセロのように、コミュニケーションの体験を重視するのではなくて、他者が心を持った主体であることを理解するのは、think,want, believe, などの言葉を使用するようになって、“I think that ..” “I want …” “I believe that ..,”,などを習得した後で、それを他者に転移するのだという説明があるとすると、それについても、同様の批判が可能でしょう。つまり、”I think that …”を使用できるようになるときには、すでに”You think that ..” “He thinks that …”なども使用できるようになっていると思われるからです。(この説明は、不適当かもしれません。なぜなら、こどもが「私」や「あなた」の人称代名詞を何時から使い始めるのか、私には、まだ確認できていないからです。ご存知の方がいたら、文献を教えてください。)
ところで、私の批判は、シミュレーションによる説明の批判にとどまらず、このような変化の前と後の子供の理解の内容についても、トマセロと私の理解は違うかもしれません。
4歳以前の幼児は、自分の理解について他人から異議を唱えたり、自分の言ったことが他人に理解されないということを経験します。また他人の言ったことを自分が異議を唱えるたり、他人の言ったことが判らなくて質問することもあるでしょう。しかし、このことが起きたとき、4歳以前の子供は、理解についての合意が出来たときに、その理解を自分と相手が共有していると考えるでしょう。つまり世界の理解は、私に理解にすぎず、他人と一致することは原理的には確認しようがないのだ、とは考えません。つまり、理解するのは個人なのではなく、世界についての理解は、世界の一部なのです。あるいは、世界の理解と世界は同一なのです。世界の理解が、間違っているときだけ、それは世界と区別されるのです。ちょうど、我々が通常はコップの知覚をコップそのものから区別していないが、それが食い違ったときだけ、錯覚であるとして、コップの知覚をコップそのものと区別するように。
では、4歳以後の子供は自分の心と他人の心をどう理解するのでしょうか。このように基本的に世界の理解は個人のものではなく公的なものでした。4歳以前の子供にとっては、世界の理解は公的なものであって、そのなかで、自分と他者では世界についての理解が異なる場合があること、それは偶然に食い違うのではなくて、自分と他者の世界理解は、それ独自の秩序を持っており、個別の対象についての理解ではなくて、その秩序がことなること、したがって、食い違いについてある予測が可能であるようになります。
なんだか、もごもごと、未整理なままに書いてしまいました。
4歳以後の子供の世界の理解をどのように理解すべきか、ということが「共有知」を考えるときに重要になります。ただし、この書庫では「共同注意と指示」を扱いたいので、これは、別の書庫で扱うことにして、話を少し戻すことにしましょう。