14 二種類のシミュレーション?

名古屋から帰りの新幹線です。

urbeさん、ご質問ありがとうございます。

我々が明確に主張できるのは、
<4歳前の子供は、我々が理解している意味では,「自分の心」や「他者の心」を理解していない>
ということです。したがって、
「それは,大人がよく他者の意図を間違って理解するのと類似的です(誤解,思い込み,情報の不足etc.)」
というurbeさんの発言の後半部分に、私は疑問があるのです。4歳未満の子供の間違いには、大人の誤解や、思い込みとは、異質なところがあるはずです。では、その違いがどのようなものであるのかを、探求することが、とりあえずの課題です。

しかし、私は上の指摘で、シミュレーション理論を批判できているとはおもっていません。なぜなら、トマセロのシミュレーション理論は、以前にも書きましたが、もう少し曖昧というか、もう少し手ごわいもののように思うからです。

2月28日書いたことですが、このような批判に対してトマセロは、次のように反論しています。
トマセロの反論:「シミュレーションというものを、子供が心的な内容を概念化し、その心的内容が自分自身のものであると意識し続け、そしてそれを特定の状況で他者に帰属するという明示的な過程であると考えなければよいのである。」「私の仮説は単に、子供は他者が「自分に似ている」ので自分と似た形で活動するはずだと言うカテゴリー的な判断をするのだと言うことにすぎない。」(p. 101)「単に、他者の大まかな機能の仕方を自分自身とのアナロジーを通して知覚するということだけのことである。」(p. 101)

シミュレーションを、類推のような意識的な思考として理解する場合と、(うまくいえませんが)無意識的に起動する心の働きとして理解する場合がありうるだろうと思います。とりあえず私が批判したいのは、前者です。

「シミュレーション理論ならば,自他の信念・欲求の隔離がうまくいっていないため,「間違った」意図を他者に帰属してしまう,と説明するでしょう.」
urbeさんが言うように、このようなシミュレーション理論による説明が正しいとしましょう。たしかに、この時期の子供は「自他の信念・欲求の隔離がうまくいっていない」のです。しかも、この時期の子供は、たまたま間違うのではなくてつねに首尾一貫して、ある種の判断において間違うのです。
しかし、この時期の子供の判断の全てが間違いなのではありません。他者の心について正しく理解できることもあるのです。なぜなら、この時期の子供は大人と会話できるので、机の上のチョコレートを見て、それをチョコレートだといえるし、隣にいる大人も机の上のチョコレートがあると思っている、と正しく判断することができるのです。しかし、そのとき、それは我々がそのように判断するのとは、どこかが本質的に違うだろう、と思います。このように子供が正しく判断するときに、それを我々大人が行なうような仕方で正しく判断しているのではありません。おそらく、この時期の子供は、我々大人が行なうとのとは違った仕方で、正しく判断しているのであって、<正しく判断してはいないのだが、結果として常に正しい判断と一致している>というのではないと思います。このとき、子供が例えば、「隣の大人のyさんも、机の上にチョコレートがあることを知っている」といったとしても、その文は、おそらく我々が理解する意味とはことなる意味で用いられているだろう、というのが私の予測です。

取り留めのない、コメントになってしまいましたが、次回から仕切り直してはじめましょう。

投稿者:

irieyukio

問答の哲学研究、ドイツ観念論研究、を専門にしています。 2019年3月に大阪大学を定年退職し、現在は名誉教授です。 香川県丸亀市生まれ、奈良市在住。

「14 二種類のシミュレーション?」への6件のフィードバック

  1. SECRET: 0
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    なるほど.まだ,はっきりとではありませんが,批判の核のようなものがわかってきました.特に以下の主張が重要になると思われました.

    >机の上のチョコレートを見て、それをチョコレートだといえるし、隣にいる大人も机の上のチョコレートがあると思っている、と正しく判断することができるのです。しかし、そのとき、それは我々がそのように判断するのとは、どこかが本質的に違うだろう

    >このように子供が正しく判断するときに、それを我々大人が行なうような仕方で正しく判断しているのではありません。おそらく、この時期の子供は、我々大人が行なうとのとは違った仕方で、正しく判断しているのであって、..

    主張をどうとらえるか,にかかりますが,とらえかたによれば,極めて難しい主張のようにも思えます.たとえば,チョコレートを知覚する,ということを低次の認知活動ととらえると,その発揮は,大人,子供,おそらく哺乳類にとっても,まったく同じ仕組みをつかっているであろうからです.

  2. SECRET: 0
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    眼前のチョコレートを見て,「チョコレートがある」と述べる,それに手を伸ばす,覚えておいて後からそこに立ち戻る,などなど,子供と大人において,行動的データはまったく同じである,と思われます.それを前提としたとき,両者の何かが本質的に異なる,と述べるためには,チョコーレトがある,という知覚について語るのではなく,なんらかの複雑な判断,価値や社会的知識との複合的判断のようなものについて語るべきなのでしょうか?

    いずれにせよ,眼前のチョコレートを知覚して,その知覚に即して何らかの行動を取る,という低次元の<判断>を考えるならば,子供と大人の間に差はありえない,と私は考えます.

  3. SECRET: 0
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    入江先生のいう違いとは例えば次のようなものでしょうか?
    既述のような事態をAとします。他方次のような場合をBとします:
    子供も大人も机のそばに並んでいる点は同じだが、ついたてか何かによって大人からは子供に見えているチョコが見えないような状態。
    Aにおいて大人は、「もし事態がBの如くであったなら自分には今現に見えているチョコは見えなくなる筈だが、幸い現実には自分はAにいるのでチョコもちゃんと見えている」といった反実仮想的理解を暗に持っていると考えられる。
    しかし子供は、Aにおいてそのような理解を持ちようがない:子供はAにおいては正しく知覚・理解するが、Bにおいては大人にとっての見え方に対して誤った理解をするから。

  4. SECRET: 0
    PASS:
    上のように、暗に反実仮想理解力などといったものを取り入れるのでなく、純粋に其処において現実に起こっている知覚・理解といったことだけに焦点を絞るなら、Aにおいて大人は、自分と子供にチョコが見えていると正しく理解し、子供も自分と大人にチョコが見えているとこれまた正しく理解するわけで、その其処での理解ということに関して「工学的」乃至形式的分析に掬い取れるような違いがあるとは考えにくいです。確かに違いがあるのは感じられるのですが、その違いは暗に、両者の判断が相違する(大人が正答し子供が間違う)場合に其の源を求めているのではないでしょうか?

  5. SECRET: 0
    PASS:
    urbeさん、反応が遅くなり、すみません。
    幼児の知覚が大人と同じかどうか、生物の機能としては、あまり違わないだろうと、私も思います。ただし、「観察の理論負荷性」ということも考える必要があるでしょうから、生物学的な機能の類似性だけから、同じように見ているというのは、難しいようにおもいます。たとえば、モリヌークス問題もまた、この観察の理論負荷性と関連しているように思います。あるいは観察の経験負荷性といってもよいかもしれません。
    ところで、私はじつは、このような知覚のレベルのことをここではあまり考えていませんでした。それも重要だとおもいますが、他者の意図の理解や、他者の知の理解というときには、幼児の言語的な知のありようをとりあえず、問題にしたいと思っています。

    上の「ついたて」の仮説は、まさに「心の理論」を考えるときに、我々が想定するような仮説だろうとおもいます。それが正しいかどうかはともかく、私が問題にしたいのは、そのような事柄の方なのです。
    うまく答えられませんが、とりあえず。

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