起源と正当性は異なる

夏の樹木

17 起源と正当性は異なる(20120726)

私たちは、14で、社会問題を次のように定義しました。
「社会問題とは、クレイムを申し立てる人やグループ自身が社会によってのみ解決できるような問題として申し立てる問題である」
しかし、「クレイムを申し立てる」という表現が、「常に特定の人やグループに対して要求する」という意味に理解される可能性があり、それでは定義が狭くなりすぎるように思われるので、これをとって次のように定義したいと思います。
「社会問題とは、ひとやグループが社会によってのみ解決できるような問題として申し立てる問題である」

ここで曖昧なのは、「社会によってのみ解決できるような問題」と言う場合の「社会」です。夫婦で解決しなければ、一人では解決できない問題があるとすると、それは夫婦という社会の問題です。野球をしようとして集まったけれども、人数が足りない時に、どうやってその問題を解決するかは、そのグループで解決する必要のある問題です。学校や、会社や国家なども、社会になります。最も大きな集団は、(AIや宇宙人に出会うまでは)人類になるでしょう。
 これらの多種多様な社会は、互いにどのように関係するでしょうか。社会を、個人を要素とする集合として考えるとき、社会同士の関係は次の3種になります。
  1,S1(社会1)がS2(社会2)と並んで存在する。
  2,S1とS3の一部のメンバーが重複している。
  3,S1がS4の一部分になっている。
そして、この社会同士の関係が、社会問題を生み出すことがあるでしょう。その時の社会問題とは、より大きな「社会」の問題ということになるかもしれません。(これについては、後で考えることになるとおもいます。)

 次に考えたいのは、次の問いです。
 「これら多種多様な社会は、どのようにして発生したのか」
この問いに対して、つぎのように答えたいとおもいます。
「社会は、それ自体が社会問題の解決のために創られたものである。つまり、ある人々 が集まることによってしか解決できない問題が登場した時に、その問題解決に取り組む中で社会集団が成立したのだ」

では、この答えをどのように証明すればよいでしょうか。たとえば、つぎのような説明で充分でしょうか。
<集団が発生するには、原因ないし理由があったはずであり、その原因ないし理由としては、集団によってのみ解決できる問題を解決すると言うこと以外には考えられません>

この説明に対しては、次の反論が考えられます。
<人間は、人間になる前から、つまり霊長類の段階で、すでに群れを作っていたと考えられます。したがって、すくなくとも言語が成立する以前の段階のヒトが作っていた集団については、その原因は、社会問題を解決することではありませんでした。>
 
この議論は「04 群れを作る理由」の議論の反復になります。そこでは、いつから動物の群れ社会が人間の社会になるのかを考えようとしました。その境界を言語の有無に求め、自覚して「問題を解決する」ができるようになることに求めました。ここでは、最初の説明をつぎのように改めたいとおもいます。
<人間が言語を持つようになってから、形成した集団もあれば、それ以前から成立している集団もあります。しかし、すべての集団は、集団によってのみ解決できる問題を解決するために作られたのであり、またそのようなものとして正当化され、そのような正当化によって存続します。したがって、霊長類の時の群れ社会が、言語を習得したあとにも継承されているとすると、そのときの集団は、集団の問題を解決するものとして正当化されているはずであり、そのようなものとしてのみ存続するのです。もし正当化を持たないならば、そのような集団はやがて解体するでしょう。>

ここから言える重要なことは、次のことです。社会制度は、社会問題の解決のために設立され、そのようなものとして正当化され、そのような正当化によって存続します。しかし、社会制度は、それ自体が、別の社会問題を引き起こすことがあり、そのときにはその解決のために、社会制度の修正や、新たな社会制度の設立が必要なります。またこのような過程をへることによって、社会制度は、その起源となった社会問題の解決のためではなくて、別の社会問題の解決のためのものとして正当化されることもあります。(ニーチェがいうように、起源と正当性は同一であるとは限らないのです。)

グローバルな社会は、<グローバルな共有知>で構成される

     夏の彫刻

02 グローバルな社会は、<グローバルな共有知>で構成される (20120722)

①グローバルな人・物・金・情報の流通によって、社会問題もまたグローバル化します。グローバルな社会問題とは、環境問題、金融問題、難民問題、食糧問題など、グローバルな社会的取り組みによってのみ解決できる問題のことです。このようなグローバルな取り組みのためには、グローバルな取り組みが必要であることがグローバルに共有される必要があります。

②ところで、グローバルな共有が可能なのは、(CNNのニュースのような)断片的な情報です。分厚いコンテクストをもつ知は、伝統を持つ共同体の中でしか共有されません。断片的な情報は、グローバルに共有されることが可能であり、またグローバルに共有されていることがグローバルに共有されることも可能です。つまり、断片的な知のみが、<グローバルな共有知>(これの明確な規定は、今後の課題である)になることが可能なのです。

③他方、社会構成主義のいうように、私たちの世界が、知によって社会的に構成されているのだとすると、社会を構成する知は社会に共有されている<共有知>である必要があります。そして、構成されるのが、グローバルな社会であるときには、それを構成する共有知は、<グローバルな共有知>である必要があります。そして、上記のように、断片的な知のみが、<グローバルな共有知>になりうるのです。

④こうして、グローバルな世界は、断片的な情報で構成されており、その情報は、歴史や複雑な組織化や階層をもたず水平的に並列することになります。グローバルな社会は、断片的で水平的な情報によって構成された、ある意味では薄っぺらな社会です。(200年くらいすると、グローバルな社会そのものも歴史を持ち、分厚いコンテクストをも通用になるかもしれませんが、いまのところ、グローバルな社会は、希薄な共有知で構成されているにすぎません。しかし、それでもそれが私たちの社会の最終の拠り所なのです。)

提案は弱すぎる?

梅雨明けの 空に浮かぶ 金団雲

16 提案は弱すぎる? (20120720)

私たちの提案に対しては、次の問いが向けられるかもしれません。

「ある人達Aが、xは社会によってのみ解決できる問題であると考え、他の人々Bは、それは社会によらなくても解決できる問題であると考えているとしましょう。このとき、xは社会問題なのでしょうか」

この問いに対して、私たちの提案では、次のように答えることしかできません。
「xはAにとっては社会問題であり、Bにとっては社会問題ではありません」
これでは、定義として弱すぎするということでしょうか?

例えば、ある国の内戦状態を、大統領は国内問題であると考えており、反政府運動の人たちは国際社会の支援がなければ解決できない国際問題であると考えている時、もし大統領が反乱軍を鎮圧したとすれば、彼はそれは国内問題として解決されたと言うでしょう。反乱軍の方は、国際社会の支援がなかったので解決できなかったと言うでしょう。
もし反乱軍が勝って民主化が行われたとすると、反乱軍の方は、国際社会の支援によって解決されたというでしょう。大統領は、国内内問題に対して不当な内政干渉があったので、解決できなかったと言うでしょう。

当事者にとっては、このような答えでは不十分です。しかし、このような場合に何が社会問題であるかについて決定できる定義をしようとするのならば、そこに一定の価値判断や規範を持ち込むことが必要になるでしょう。

しかし、そのような価値や規範そのものが社会によって構成されたもの、広い意味の社会制度であると考えられます。そして、この社会制度は、社会問題の解決策として作られ正当化されるものなのです。このように考えようとするならば、社会問題の定義の中には、このような規範や価値判断を持ち込まないほうがよいと思われます。そのほうがむしろより大きな説明力を持つ理論になるのです。

別案の検討

       今日は東京出張でした。

15 別案の検討 (20120714)

前回、次のような「社会問題」の定義を提案しました。
「社会問題とは、クレイムを申し立てる人やグループ自身が社会によってのみ解決できるような問題として申し立てる問題である」

この定義は、
①社会学者が<社会がある機能を持ったシステムとして理解し、その機能に反する逆機能を持つ状態を、社会問題である>と理解するのでは、客観性を持ち得ないという欠点を回避しています。
②キツセとスペクターによる、「社会問題」とは「何らかの想定された状態についてを述べ、クレイムを申し立てる個人やグループの活動(claim-making activity)」であるという定義がもつ、広すぎるという欠点を回避しています。
③クレイムを申し立てる個人がグループの数によって、社会問題とそうでないものを区別ことはできない、という基準をクリアしています。

ここで念の為に別の案を検討しておきたいと思います。

別案1
「社会問題とは、クレイムを申し立てる人やグループ自身が、社会が原因となって生じた問題として申し立てる問題である」
別案2
「社会問題とは、クレイムを申し立てる人やグループ自身が、社会が解決すべき責任のある問題として申し立てる問題である」

別案1の欠点は、<社会が原因となって生じたのではないとしても、社会全体で取り組まなければ解決できない問題>が社会問題から除外されることにあります。なぜなら、それでは困る場合があるからです。例えば、大規模な自然災害の場合に、いかにして復興するかは社会で取り全体で取り組まなければ解決できない問題なのですが、これは社会問題に入れる必要のあるだと考えるからです(さらに理由を問われたら、なんと答えたらよいものでしょうか。)
別案1のもう一つの欠点は、それによると、社会問題が生じるためには、すでに社会が存在していることが前提される、ということです。このとき、社会そのものが社会問題の解決のために創られたと考えることができなくなります。

別案2の欠点1は、<社会に解決すべき責任がないのだが、社会全体で取り組まなければ解決できない問題>が社会問題から除外されることにあります。上に述べた大規模な自然災害の場合がこれに当たります。
別案2の欠点2は、別案1の欠点2と同じことです。

では、<社会全体で取り組まなくても解決できるが、しかし社会が原因となって生じた問題>は社会問題ではないといえるでしょうか。
微妙な美妙なケースでは「社会が原因となって生じた」ということの意味が問題になりそうですが、大抵の場合には<社会が原因になって生じた問題の解決については、社会全体の責任である>と言えそうです。その意味で、その問題の解決は社会がスべきことであるとおもいます。しかし、それは社会問題ではないと考えます。もし社会が解決すべき問題であるにもかかわらず社会が解決しようとしていないのならば、そのときに初めて、社会問題になると考えられます。

別案2の場合も同様です。<社会全体で取り組まなくても解決できるが、しかし社会が解決すべき責任のある問題>は、これ自体が社会問題なのではなくて、社会がこの問題を解決しようとしていない時に、社会問題になります。

このように考えるならば、別案1と2は不要であり、私達の提案1だけでよいことになります。

では、これで十分でしょうか。

日本における人文社会科学の課題の大転換

                新しき 書庫を立ち上げる 七夕の日、
 
 
01 日本における人文社会科学の課題の大転換 (20120707)
 
(以下の主張は、Pacific Division of APA in Seattle, April 6. 2012、での発表“Philosophy in Japan after the WW II”の一部を書き換えたものです。)
 
(1)明治維新以後、日本の人文社会科学にとって、あるいは日本社会にとって、重要な問いは次の二つでした。(これは他の非西洋国にも共通の問いであるかもしれません。)
  ・「西洋近代とはなにか」
  ・「私たちは西洋近代にどう対応すべきか」
 
(a)「西洋近代とはなにか」
日本の大学では明治以後、「西洋(西洋近代)とは何か」を知るために、西洋社会や西洋文化の研究に力を注いできた。(哲学研究でも同様であり、明治以来の日本の思想界にとっては、西洋思想を理解することが非常に重要な課題であり、それは戦後も変わらなかった。戦前から現代にいたるまで、日本における哲学研究の主流は西洋哲学史の研究である。)これは、西洋にどう向き合うかを考えるために、あるいは西洋に追いつき追い越すために、不可欠な研究だったのです。)
(b)「私たちは西洋近代(その哲学)にどう対応すべきか」
 私たちは、西洋近代社会の特徴は、個人主義、民主主義、資本主義、合理主義、科学技術などとして理解してきました。そして、私たちは、これらに対してどう対応すべきか、を問うてきました。それに対する答えは、主に次の3つに分けることができます。
  ①近代主義
  ②復古主義(東洋思想、日本思想)
  ③マルクス主義
この傾向は、第二次世界大戦を挟んでも変わりませんでした。
 
(2)しかし、このような状況は1990年頃に大きく変化しました。その原因の一つは、冷戦の終わりです。これによって③のマルクス主義は力をうしないました。私たちは、それによって社会と歴史についての大きな物語を失いました。他方で、欧米社会を追いつき追い越すべきモデルとして考えた①の近代主義も力を失うことになりました。なぜなら、日本社会はバブルの時期に経済的に欧米社会に追いついたために、欧米社会は、日本が抱える問題を解決するための手本とはなりえなくなったからです。もちろん個別的には、欧米の様々な制度や文化が目指すべきモデルであり続けていますが、社会全体のモデルにはなりえないのです。これは、明治以後の日本にとって初めての状況です。②の復古主義も力を持ちません。バブルのころには一時「日本回帰」が言われて復古主義者たちが力を持ちそうになったことがありました。しかし、グローバル化の時代に突入すると、伝統的なものの復活で対応できないことは自明になったからです。こうして1990年以後には、①②③は答えとなりえなくなった。
 しかし、それだけではありません。実は「私たちは西洋近代にどう対応すべきか」という問いの重要性が失われたのです。それに代わって、緊急の課題として登場した問いが、次の二つです。
  ・「グローバル化とは何か」>

  ・「私たちはグローバルカにどう対応すべきか」
「西洋近代とは何か」よりも「グローバライゼーションとは何か」の方がより重要な緊急の問いになったのです。
 こうして日本における人文社会科学が答えるべき最重要の課題は、大きく転換しました。ヨーロッパ研究の学問は社会的な緊急性を失いました。というよりも、かつて普遍性を主張していたそれらの学問が、ヨーロッパ研究になってしまったのです。
 
 こちらの書庫はどのくらいの頻度で書き込めるか、未定ですが、頑張ります。
 

 
 
 

社会問題とは何か

 
 
              7月の 水田の緑 美しき

              (前回の「ゆすらうめ」と「さくらんぼ」はどうも別のようです)
 

13 社会問題とは何か (20120702)

 
前回の図表が「問答としての社会」を考えるときの基本的な枠組みです。しばらくは、この基本枠組みの説明をします(それが終われば、つぎにこれを拡張したいとおもいます)。まず、もっとも基本的な概念である「社会問題」の説明をしましょう。
 
 社会問題とは何でしょうか。
 まず社会システム論者の理解を紹介します。
「社会問題」という概念が使われ始めたのは、それほど古いことではないだろうとおもいます。社会学での「社会問題」論として有名なものは、マートンの「社会問題と社会学理論」(1969)だろうと思います。そこで彼は、「社会問題とは、ひろい範囲の人々が共有している社会的標準と社会生活の現状との実質的な食い違い」(マートン、1969、p. 417)である。と定義しています。マートンは、このような「社会問題」を、さらに「社会解体」と「逸脱的行動」に区別します。「社会解体」とは、「相関連する地位や役割の社会体系における不適切ないし欠陥」(同書、四四二頁)のことであり、「逸脱的行動」とは、「それぞれの社会的地位にある人々のために設けられた規範からはずれている行為」(同書、446)のことです。この両方は、社会システムの中で、「逆機能」をもつものであるとされます。「社会的逆機能」とは「社会体系の特定の一部分の、その充足すべき要件に対する不適切さ」(同書、464)のことです。
 マートンは、社会システムのなかで逆機能を持つ「役割」「地位」「行為」を社会問題と呼ぶわけです。これによると、何が社会問題であるかは、社会学者が客観的に判断することになります。
 
 これに対して、異議を唱えたのが、社会構築主義です。彼らは次のように考えます。客観的な状態というものについての、専門家の同定が、価値判断とは独立に可能なものではない、とすれば、マートンの立場,つまりある状態が社会問題であるかどうかの判断に関して、メンバーの判断よりも、社会学者の判断を優位におく立場は、無効になります。社会構築主義者であるキツセ&スペクターは、「もしある状態がそれに関わる人々によって社会問題と定義されないのならば、その状態とは、部外者や科学者にとっては問題かもしれないが、人々にとっては問題ではないのである。」(キツセ&スペクター著『社会問題の構築 ラベリング理論をこえて』マルジュ社、1990、p. 67)という。つまり、マートンのいう(学者は気づいているが、当事者たちは気づいていない)「潜在的社会問題」というようなものを認めません。また、逆に、第三者や、科学者が、問題ではないといっても、当事者が間違って社会問題だと考えている「偽の社会問題」というようなものも、認めません。それは、当事者たちが問題であると考えている限りで、社会問題なのです。
 では、社会構築主義者の定義で十分なのでしょうか。