社会問題とは何か

 
 
              7月の 水田の緑 美しき

              (前回の「ゆすらうめ」と「さくらんぼ」はどうも別のようです)
 

13 社会問題とは何か (20120702)

 
前回の図表が「問答としての社会」を考えるときの基本的な枠組みです。しばらくは、この基本枠組みの説明をします(それが終われば、つぎにこれを拡張したいとおもいます)。まず、もっとも基本的な概念である「社会問題」の説明をしましょう。
 
 社会問題とは何でしょうか。
 まず社会システム論者の理解を紹介します。
「社会問題」という概念が使われ始めたのは、それほど古いことではないだろうとおもいます。社会学での「社会問題」論として有名なものは、マートンの「社会問題と社会学理論」(1969)だろうと思います。そこで彼は、「社会問題とは、ひろい範囲の人々が共有している社会的標準と社会生活の現状との実質的な食い違い」(マートン、1969、p. 417)である。と定義しています。マートンは、このような「社会問題」を、さらに「社会解体」と「逸脱的行動」に区別します。「社会解体」とは、「相関連する地位や役割の社会体系における不適切ないし欠陥」(同書、四四二頁)のことであり、「逸脱的行動」とは、「それぞれの社会的地位にある人々のために設けられた規範からはずれている行為」(同書、446)のことです。この両方は、社会システムの中で、「逆機能」をもつものであるとされます。「社会的逆機能」とは「社会体系の特定の一部分の、その充足すべき要件に対する不適切さ」(同書、464)のことです。
 マートンは、社会システムのなかで逆機能を持つ「役割」「地位」「行為」を社会問題と呼ぶわけです。これによると、何が社会問題であるかは、社会学者が客観的に判断することになります。
 
 これに対して、異議を唱えたのが、社会構築主義です。彼らは次のように考えます。客観的な状態というものについての、専門家の同定が、価値判断とは独立に可能なものではない、とすれば、マートンの立場,つまりある状態が社会問題であるかどうかの判断に関して、メンバーの判断よりも、社会学者の判断を優位におく立場は、無効になります。社会構築主義者であるキツセ&スペクターは、「もしある状態がそれに関わる人々によって社会問題と定義されないのならば、その状態とは、部外者や科学者にとっては問題かもしれないが、人々にとっては問題ではないのである。」(キツセ&スペクター著『社会問題の構築 ラベリング理論をこえて』マルジュ社、1990、p. 67)という。つまり、マートンのいう(学者は気づいているが、当事者たちは気づいていない)「潜在的社会問題」というようなものを認めません。また、逆に、第三者や、科学者が、問題ではないといっても、当事者が間違って社会問題だと考えている「偽の社会問題」というようなものも、認めません。それは、当事者たちが問題であると考えている限りで、社会問題なのです。
 では、社会構築主義者の定義で十分なのでしょうか。