会社の利益と人生の幸福

                夏の大阪城です 
 
22 会社の利益と人生の幸福 (20120831) 
 
社会組織は、次の二つの条件を満たすものでした。
  ①社会問題の解決のために作られ、
  ②そのようなものとして正当化される
(ところで、この①と②の条件が満たされるかどうかを判定するのは、だれでしょうか。専門家が判定するのでしょうか。それとも、当該社会の成員の合意によるのでしょうか。これについては、後で考えたいと思います。)
 
この①と②を満たすのは、国連などの国際組織、国家、州、県、郡、市、町、村、など地方公共団体、国営企業、NGO、NPO、これを満たすでしょう。これに対して、私企業は①を満たす場合がありますが、しかし私企業は②を満たす必要がありません。要するに、社会組織と私企業を分けるものは、①ではなくて、②なのです。
 
前回の結論は、上記のようなものでした。
 
しかし、つぎのような疑問が沸き起こります。
私はこれまでは、家族もまた社会組織だと考えてきました。仮に、男女二人だけからなる家族であるとしても、それは二人からなる社会組織です。家族は、二人でしかできない様式の生活をする、あるいは家族世帯でしかできない様式の生活をするという目的で家族をつくり、そのようなものとして成員によって正当化されている、ということがあります。
 
もし家族についてこのように考えるのだとすると、会社もどうように考えられるのではないでしょうか。家族の営みと、家族経営の会社の営みは、うまく区別できないようにおもいます。あるいは、仲間5人で会社を作ったという場合、これもまた①と②を満たすのではないでしょうか。
 
会社の存在が、より広い社会の中で正当化されることを考えると、それは会社の目的を実現できているかどうかとは、別の問題になります。しかし、会社がそのメンバーによって正当化されているかどうかを考えるときには、会社の設立目的を果たしているかどうかが、問われることになります。
 
「会社は社会組織であるかどうか?」という問いをペンディングにしたまま、
「会社とは、どのような組織であるのか」を考えてみたいとおもいます。
 
ドラッカーは、「企業とは何か」を理解するには、「企業の目的」を考えなければならないといいます。そして「企業の目的として有効な定義は一つしかない。すなわち、顧客の創造である」「企業が何かを決定するのは、顧客である」と言います。「企業の目的が、顧客の創造である
ことから、企業には二つの基本的機能が存在する」と言います。それは「マーケティング」と「イノベーション」です。通常は、利益を上げることが企業の目的であるといわれているが、ドラッカーは、利益は、マーケティングとイノベーションの結果であるといいます。
 
これは私の思いつきですが、企業にとっての利益は、人間にとっての幸福と似ているのかもしれません。利益を上げることが目的であるとしても、そのために何をすべきかを、その目的からは導出することはできません。人の目的が幸福であるとしても、幸福になるために、その目的からは何をすべきかを導出することはできません。幸福は、結果的に与えられるものですが、それを目指しても何をしたらよいのかわからないのです。企業にとっての利益もまた、マーケティングとイノベーションの結果として与えられるものなのかもしれません。
 
 

 
 

会社とは何か

 
 

 

21 会社とは何か (20120821)
 
国営企業と私企業の区別は次のとおりです。
 
国営企業の目的は、財やサービスの提供です。あるいは、財やサービスの提供による国民の福祉です。私企業の目的は、利益の追求です。財やサービスの提供はその手段です。別の言い方をすると、私企業の目的は、財やサービスの提供による利益の追求です。
国営企業と私企業まったくおなじ財やサービスを提供しているとしても、その最終目的は異なります。
 
私企業は、財とサービスを社会に提供するという点で、社会問題を解決しようとしているといえます。しかし私企業は社会問題を解決するために作られたのではありません。それは、利益を上げるために作られたのであり、社会問題を解決することはその手段です。
 
以上が、常識的な説明になるでしょう。
 
しかし、これは正しいでしょうか。私企業の目的は、常に、利益の追求なのでしょうか。そうではないとおもいます。なぜなら、ひとが会社を作るときの目的は、利益の追求だとは限らないからです。ザッカーバークがFacebookをつくった時の理由は、単に面白いからかもしれませんし、社会を少し変えたいからかもしれません。しかし、それを推進しようとすると、一人では手が足りないので、人を雇いたいと思ったとしましょう。人を雇うには、彼らに給料を払わなければならず、そのためには会社の利益を大きくしなければなりません。さらに事業を拡大するために、さらに多く人を雇おうとすると、さらに利益を増大させなければなりません。このようにして、会社が大きくなっていくケースもたくさんあるでしょう。この場合、利益の追求は手段であって、その目的は事業をすることなのです。では、その事業とは何でしょうか。それは、何でもよいのです。その目的が、NGONPOの目的と同じである場合もあります。会社の場合に特長的なの条件は、その事業が同時に金儲けにもなることです。
 
企業の目的としては、次の三つ、
 ①利益の追求
 ②事業(ある財やサービス提供)
 ③ステイクホルダー(顧客、株主、従業員)が幸せになること
が考えられるのではないでしょうか。そして、多くの企業では、この比重の違いがあれ、この三つ全てが目的になっているでしょう。
 
ただし、このような理解は、曖昧で、欺瞞的であるかもしれません。企業の本質は、やはり①利益の追求であるように思われるからです。より大きな利益を追求することは、会社にとっての本質的な性質であるようにおもわれます。より大きな利益を追求することが、会社組織にとって、構造上必然的に最優先されるようになっているのではないでしょうか。(これの証明が必要ですが、ここではとりあえず、前提しておきます。)n lang=”EN-US”>
 
このように考えるとき、会社は社会組織であると言えるのでしょうか。
 
12回に次のように書きました。テーゼ「社会の規則や組織などは、一人では解決できず集団で取り組まなければ解決できない問題(社会問題)を解決するために作られたものであり、またそのようなものとしてのみ正当化される」
これを利用して社会組織を定義すると、「社会組織とは、社会問題を解決するために作られたものであり、またそのようなものとしてのみ正当化される組織である」となります。
 
この定義に従うなら、会社は、社会組織ではありません。会社は、社会問題を解決するために作られたものではありません。なぜなら、社会問題を解決することは利益の追求のための手段だからです。また、会社は、社会問題の解決するものとして正当化されるのでもありません。会社(の活動や存在)が正当化されるのは、社会規則に従うことによってだといえるでしょう。
 
ある会社の目的は、利益追求ではなくて、ある事業の推進であったとします。しかも、その事業は、社会問題の解決への取り組みだと言えるのであったとします。このとき、この会社は、社会問題の解決するために作られたものだと言えます。しかし、この会社は、社会問題を解決するものとして正当化されるのではありません。この会社が、社会問題の解決に失敗しているとしても、社会の法的な規範(あるいは土徳的な規範)を審判しない限り、非難されることはありません。つまり、社会問題を解決するために作られた会社であったとしても、それは社会問題の解決するものとしてのみ正当化されるのではないので、社会組織でありません。
 
さて、会社が社会組織ではないとすると、第12回で述べた私たちの見取り図は、会社が大きな役割を果たしている現代社会を理解するには不十分だということになります。では、私たちは、さきの見取り図をどのように修正したら良いのでしょうか。
 
これを考えるために、問答の観点から会社を考えてみましょう。
 

 
 

NPOと私企業

 

        松林 直線を集め 天に向かう         
 
20 NPOと私企業 (20120817)
 
<社会問題とは、社会によってのみ解決できるような問題として申したてられた問題である>といえます。そして社会組織とは、社会問題を解決するために作られた組織です。しかし、ある社会問題を解決できる組織は、一つであるとはかぎりません。たとえば、ある社会問題は、あるNGOによって解決されるかもしれないが、しかし他のタイプのNGOでも解決できるかもしれないし、また行政によって解決されるかもしれないし、新しいビジネスモデルの企業によって解決されるかもしれません。したがって、<社会組織は、それによってのみ解決できる問題を解決するために作られたものである>とはいえません。ある社会問題が、一つのNGONPOによってではなく、多数のNGONPOによって解決される場合もあります。
 
奈良市の中に、奈良市の住民だけで作られているNPOがあるとき、奈良市とそのNPOの関係は、全体と部分の関係ではありません。なぜなら、二つは互いに独立して活動しているからです。しかし、交差というのでもないと思います。どうやら、組織と組織の関係を、人を要素とする集合の重なり方で区別するのでは、不十分なようです。前回の(a)(b)(c)の区別では不十分なようです。
 
市の活動とNPOの活動の違いは、<市の活動は、その集団のメンバー(市民)の問題を解決することであるが、NPOの活動は、その集団のメンバーの問題を解決することではなくて、メンバーの問題である場合もあるが、より広範な人々の問題を解決するための活動である>という点にあります。
 
さて、もう一つの気になる組織について考えてみましょう。会社もまた、社会問題を解決するために作られた社会組織のひとつだといえるでしょうか。「会社は、社会問題を解決するのでしょうか。」
 
たとえば、アダムスミスのいうように、工場での分業によって、安価に大量の製品を生産することが可能になりました。「どうやって、品質のよい道具を安価に提供すればよいのか」という問題を解決するには、工場での生産が必要でしょう。企業は、財やサービスを社会に提供します。しかも不特定多数の人にそれを販売しますから、彼らは、特定の人にではなくて、社会全体に貢献しているといえます。ある製品やサービスが、個人では生産・供給できず、複数の人からなる組織(企業)によって生産・供給可能であるとしましょう。このとき、この企業は社会問題を解決しているといえそうです。
 
では、それが国営企業であるときと私企業であるときの違いはなにでしょうか。
(社会組織と社会規則の関係については、企業についての考察の後で戻ることにします。私企業(会社)というのは不思議な存在です。私たちが考える図式の中で、企業を適切に説明できないならば、その図式はほとんど無効になってしまいます。)
 
 
 

「私たちはグローバル化にどう対応すべきか」

 
            森の中は、水槽の中のようです。
 
 
03 「私たちはグローバル化にどう対応すべきか」(20120809)
 
01で1990年代以後の日本社会(ないし日本の人文社会科学)の緊急の課題は、
    「グローバル化とは何か」
  ・「私たちはグローバル化にどう対応すべきか」
の二つに変化したと言いました。これは、日本に限らず、グローバルな変化であろうと思います。
 
社会のグローバル化によって、社会問題はグローバル化し、それに対する解決にはグローバルな取り組み、グローバルな制度が必要になります。また問題が、事実認識と意図の矛盾から生じるのだとするとき、社会問題は意図や目的や価値観の社会的共有を前提します(これについては、書庫「問答としての社会」で論じる予定です)。したがって、グローバルな社会問題の場合には、意図や目的や価値観のグローバルな共有を前提することになります。社会問題のグローバル化は、必然的に価値観や文化のグローバル化を伴っているのです。
 
例えば、「グローバリズムにどう対応するのか」という問題の一つの具体化は次の問いです。
 
問題1「グローバルな単一市場資本主義を認めるのか。
    認めないとしたら、それをどう規制するのか」
 
このような問題意識の背後にある規範、あるいはこれの答えを見つけようとするときに従うべき一つの基準は、「差別と貧困と格差をなくして、自由で平等で平和な社会を実現すること」ではないでしょうか。これは、ほぼグローバルに共有されている価値観であり、(少なくとも当面の)世界の目標として共有されているのではないでしょうか。(この目標が現実には程遠いことは誰もが認めることであり、その実現が非常に困難であることも誰もが認めることであるとしても、これを否定するひとはほとんどないのではないでしょうか。)もしこのような価値観を世界の人々がほぼ共有できているのだとすると、そのことだけでも人類史の大変大きな達成です。
 
ただし、ここでの「自由」や「平等」の意味は、伝統的な文化の分厚いコンテクストを持っていません。たとえば、「人権」という規範は、(近代西洋でその概念が登場したときには、ジョン・ロックにおけるようにキリスト教が背景にあったのだが)現代においてほぼグローバルに受け入れられているものとしては、キリスト教のコンテクストを前提していません。
 
これは分厚いコンテクスト抜きに共有されている規範です。この規範を究極的な仕方で基礎付けることは難しいですが、この規範のグローバルな受容ないし妥当性を正当化することは必要です。(この正当化は、(哲学などの)専門家だけによって行われれば十分でしょうか。それともこの正当化自体が、グローバルに共有される必要があるでしょうか。これは、今後の課題としておきます。)
 
「グローバル化にどう対応するか」という問題のもう一つの具体化は、次の問いです。
 
問題2「グローバルな共通文化の支配を認めるの
か?
    認めないとしたら、個別の文化や言語の意義は何か?」
 
これに答えるときの基準の一つは「個人の自己決定の尊重」であると思われます。これもまた、グローバルに共有されつつある規範だと言えるでしょう。ただしこの場合の「個人の自己決定の尊重」もまた、それがグローバルに共有されるためには、特定文化の歴史的なコンテクストから自由になる必要があります。
 
文化はグローバル化によって、どのように変容するのでしょうか。
しばらく、この問題を考えたいとおもいます。
 
(といっても、お盆は帰省しますので、お休みします。)
 
 
 
 

組織と規則

久しぶりに訪れた森の中です。生き返ります。

19 組織と規則 (20120807)
前回確認したことは、<あらゆる組織が規則によって成立し、あらゆる規則が組織において成立する>ということでした。

ところで、社会にはさまざまな組織と規則があります。それらはどう関係しているのでしょうか。その関係は社会問題によってうまく説明できるでしょうか。
これを考えるために、つぎのように論点を分けて考えたいと思います。
   ①組織と組織の関係
   ②組織と規則の関係
   ③規則と規則の関係

①どのような組織があり、それらはどう関係しているのでしょうか?
 組織の要素が、人であるとすると、組織と組織の関係は、二つの集合の関係として考えられます。二つの集合の関係は、
  (a)全体-部分関係 (たとえば、国家と地方公共団体、大学と学部)
  (b)交差関係、   (たとえば、国家と国際企業、愛知県とトヨタ)
  (c)独立      (たとえば、大阪府と奈良県、トヨタとホンダ)
の三つです。

②組織と規則の関係もまた、組織間の関係に応じて、3つに分けることができます。
(a)組織が全体-部分関係にあるときの、組織と規則の関係を考えましょう。

 たとえば、国家と県の場合、県にとって、国家の規則である法律は、それに従うべきものです。県の設置そのものが、地方自治法にもとづいています。
県の規則である条例は、法律に反しないことを条件とします。
 私たちの前提によれば、国家は、国家によってのみ解決できる社会問題の解決のために設立されたはずであり、県もまた、県によってのみ解決できる社会問題の解決のために設立されたはずです。もしその県が、国家(の法)によって設置されているのだとすると、それは国家が、ある問題の解決のために県を設置したということである。この場合には、国家と県は、別の組織というよりも、県という組織は、国家という組織のその一部分であるといえます。

 しかし、全体と部分の関係にある二つの組織が、つねにこのような関係になるわけではありません。たとえば、奈良県の中で、奈良市に住む住民だけで作られているNPOがあるとき、このNPOは、日本国の法律や、奈良県や奈良市の条例に拘束されますが、このNPOは、日本国や奈良県や奈良市の組織の一文であるのではありません。仮にこのNPOがNPO法によって、NPOとして承認された組織であるとしても、このNPOは、日本国という組織の部分組織ではありません。
 ところで、このNPOは、この組織によってしか解決できない社会問題を解決するために作られた組織だといえるでしょうか。他のNPOでも解決できるかもしれませんし、あるいはその問題は、奈良市によっても解決できるかもしれません。それでも、このNPOが、社会問題を解決するために作られた組織であるということはいえます。なぜなら、社会問題は次のように定義されたからです。
「社会問題とは、ひとやグループが社会によってのみ解決できるような問題として申し立てる問題である」

社会制度とは何か

自治会の ノスタルジックな 夏祭り

18 社会制度とは何か (20120728)
 
(何をしようとしているのか、わかりにくいと思うので、展望を書いておきます。
 私の探求の最終目的は、問答に注目した理論哲学とこれに対応する形での問答に注目した実践哲学を考えることにあります。
 この書庫の目標は、問答に注目して社会を考察することです。そのときに特に重要になるのは、<社会問題>です。現在有力な社会理論は、システム論と社会構築主義だろうと思います。それらに対する不満の一つは、それらが社会変動をうまく説明できないことではないでしょうか。私たちは<社会問題を解決するために社会制度が作られ、そのようなものとして正当化される>と考えることによって、社会変動を説明できる社会理論を作ることができるのではないでしょうか。といっても、これはまだ単なる目論見にすぎません。)

12で示した見取り図の説明を続けましょう。社会問題についての説明をひとまず終えて、社会制度の説明に入りたいと思います。

塩原勉は、「社会制度」についてつぎのように説明しています(『世界大百科事典』平凡社、第二版、「制度」の項目参照)。「社会制度」とは、<価値体系、制度、社会集団からなる複合物の全体>です。狭い意味の「制度」とは、慣習,慣例,法などの「社会諸規範が複合化し体系化したもの」のことであり、「価値体系」とは、この制度を正当化するものであり、「社会集団」とは、この制度の規整の下で活動するものであると説明されます。たとえば、「家族生活は婚姻制度,扶養制度,相続制度,隠居制度,その他の諸制度によって規制されている」とあり、これらの制度は、価値体系によってある価値体系によって正当化されており、この諸制度の下に家族という集団が活動するということのようです。

この説明は、よくできているように見えます。足りないところは、「なぜこのような社会制度が発生するのか」、「なぜこのような社会制度が変動するのか」という説明です。もちろん、社会変動については、「社会変動」の項目を見れば、また興味深い説明があります(事典の中での説明には限界があるので、塩原勉の著作を読む必要があります。ここでは塩原氏の批判を意図しているのではありません。むしろ多くを学びました)。注意したいのは、社会制度の説明と、その発生と変動の説明は切り離せないということです。そしてそれを結びつけて説明するときに<社会問題を解決するために、社会制度が作られる>と考えることが有効であろうということです。

 ところで、価値体系は、社会問題の設定の段階で前提として機能しているとおもいます。もちろん、価値体系それ自体が、社会問題の解決のために設定されるということもありえます。その意味で、価値体系は、社会問題の前提として機能すると同時に、社会制度の一部でもあります。このような事情のために、まずは単純な事態を考えておくために、社会制度の中の、<規範ないし規則(塩原氏のいう制度)>と<組織ないし集団(塩原氏のいう社会集団)>について、考察したいと思います。

 ここから本題です。社会問題を解決するために、社会制度が作られます。その社会制度は、ある局面では、規則と組織の二つに区別できるようにみえます。例えば、一方に、国家という組織、県や市という組織、警察、病院、学校、消防などの組織があります。他方に、法律、条例、校則などの規則があります。しかし「組織と規則は独立したものではありません」。これの証明を試みましょう。

 まず、<どんな組織も規則を必要とします>の証明
 ある問題の解決のために共同作業をする必要があるとき、この共同作業をするものが組織です。共同作業が成立するためには、行為の約束(あるいは相互予期)が必要です。組織が、恒常的にある共同作業をするときには、一回の行為の約束(相互予期)ではなくて、規則(の集団的受容)が必要になります。学校は、時間割を守ること、クラス編成に従うこと、宿題をしてくること、などの規則(の集団的受容)によって成立しています。

 次に、<どんな規則も組織を必要とします>の証明
 規則が成立する(規則が社会的に受容される)ためには、規則に従うべき人々の集団が必要です。例えば、毎朝6時に公園に集まってラジオ体操するという規則があるとしよう。そこに集まる人々は常に同じ人達ではなくて、その都度入れ替わりがあるとしても、そこに一度でも参加した人々がおり、そこにほとんど参加しているひとがおり、参加の頻度はいろいろであるとしても、そこにはゆるやかな集団があります。

 ちなみに、この集団は、どのような社会問題を解決するためにつくられたのでしょうか。誰かが呼びかけて、朝の公園でのラジオ体操がはじまったとしましょう。呼びかけたひとの動機は、一人でラジオ体操するよりも数人集まってしたほうが楽しい、ということであったかもしれません。それに賛同する人たちがそこに集まってきたとしましょう。これは、「自然発生的に」成立した規則であり、集団であると言われるかもしれません。しかし、最初に呼びかけたひとの問題(「もっと大勢で楽しくラジオ体操したい」という意図を実現するにはどうすればよいか、という問題)は、大勢で取り組まなければ解決しない社会問題だと言えます。