7 分人主義と役割論の比較

 

いつも通りすぎるのですが、先日はじめて中津川に立ち寄りました。
駅前の蕎麦屋さんがとても美味しかったです。
 

7 分人主義と役割論の比較(20140623)

 「分人」概念をより明確にするために、「役割論」との違いを確認したい。
 廣松渉は『存在と意味』第二巻で、「実践的世界」を扱う。廣松は、実践的関心に対して、対象は、「実在的所与」以上の「意義的価値」として現前し、主体は「能為者誰某」以上の「役柄者或者」として現存在するという。つまり、私たちが行為する時、対象は何らかの価値をもったものとして現れ、主体は何らかの役割を背負ったものとして登場する。
 彼はこれを「用在的世界の四肢構造」と呼び、つぎのように整理する。
  用在的財態の二肢性(実在的所与―意義的価値)
  人格的主体の二相性(能為者誰某―役柄者或者)
ここで「役柄的或者」と言われているものは、「役割」とほぼ同じものと考えてよいだろう。一人の人は、父親、夫、子供、会社員、お客、などの複数の役割をもつ。人格的主体の行為のほとんどは、役割行為であり、役割行為とは、他者の期待を察知し、目標を実現することであるとされる。夫々の役割行為は、他者の役割との共互構造(順次交替的、並行共業的、同時相補的)をもつ。
 廣松の役割論がユニークな点は、社会的な役割や個人の存在を前提せずに、むしろ役割行為を通して、社会な様々な役割や人格的主体が存立すること(構成されること)を示そうとする点である。(これはフォイエルバッハや、ミードや、レーヴィットの先行する仕事の影響を受けている。)
 それでは、人格は役割の束なのであろうか。廣松はそのようには考えず、「「人格的特性」は「役柄規定の束」に還元されるべくもない」(第二巻p142)と述べている。例えば野球監督という役割を持つ人々の間にも個性の差異があることを指摘して、その個性は、役割から独立して各人が持つものであるとする。したがって、その個性は「当該人物の非社会的=自然的な特性」142として思念される、という。
 個性を持つ人物主体が、ある役割を持つものとして、行為する、という二肢構造を主張するのであるから、主体は役割の束に還元されるのではなくて、役割ないし役割の束の担い手となる。
 ところで、分人主義において、友人と話している自分と家族と話している自分が別の人格であるという場合、その分人はそれぞれ異なる個性を持つ。これに対して、廣松が、野球監督も個性を持つというとき、役割と個性はそれぞれ「役柄者或者」と「能為者誰某」の二肢にふり分けられている。個性をもつ「能為者誰某」は、様々な役割の担い手であり、その担い手が様々な役割を貫いて共通している特性になるだろう。これは、分人主義において、分人が異なるごとに異なる個性を生きるということとは、全く異なる。
 廣松には、社会の多元性への指摘はみられないように思われる。むしろ次の引用に見られるように、非常に同質的な社会ないし共同体が考えられているように思われる。
「同一“共同体”に内在する諸人物の人格形成は<当在的主体>の契機に即するとき、相当に“同型的”であるといえよう」(『存在と意味』第二巻、p.180)
 社会が同質的であるから、個人がさまざまな役割を担っているとしても、それらの役割を貫いて同質的な個性を維持することができるのだろう。社会が同質的でないとき、様々な役割を貫いて、同質的な個性を維持することは困難になる。
 では、この「個性」理解の違いを除けば、役割理論と分人主義は、同じようなものになるのだろうか?