6 分人(ないし主体位置)の間の矛盾とそれへの対応

 

少し下草刈りをしましたが、まだ不十分です。書庫の方は、どのように手を付けていけばよいのか、方針も問題設定も考えあぐねています。
 
6 分人(ないし主体位置)の間の矛盾とそれへの対応 

(20140613)

 平野の「分人」とムフの「主体位置」が同じものだといえるかどうか、確信がもてないが、とりあえずほぼ同じものとして議論を進める。
 分人はそれぞれ、それが属する人間関係の中で、ある課題を共有し、その解決に取り組むだろうと思われる。そこで分人は他者と課題(問題=葛藤)を共有する。つまり、それぞれの分人自身が、何らかの問題ないし葛藤を抱えている。人が何かを意図する時、たとえば、Xを実現しようと意図するとすれば、そのとき現実にはXが実現していない(とその人が信じている)ことが前提になっている。そこに現実と意図との葛藤があると言えるし、また意図はすでに葛藤の表現であるとも言える。その問題は、職場でのルーティンワークのような問題であるかもしれないし、次の給料日までのやりくりの問題かもしれないし、参加しているNGOが長年取り組み続けている問題であるかもしれない。
 ところで、ある人が複数の分人を生きている時、その分人の間にも矛盾が生じる可能性がある。この分人間の矛盾に私たちはどう対応しているのだろうか。とりあえず、次のような対応が考えられる。
 
 (1)分人の間の矛盾を解消しようとする。このために、矛盾する一方ないし両方の分人を変えようとするだろう。
一方の分人を他方の分人と矛盾しないように変えようとすると次のようにするだろう。
 ①そこでのその分人としての活動を抑制する
 ②そこでのそれまでの活動を続けながらも、本音は別だと思う(心理的に逃避する)
 ③そこでのそれまでの活動を続けながらも、その活動に別の意味付けを与えようとする(解釈を変更しようとする)
あるいは、④矛盾する一方の分人をやめてしまうことも矛盾解決の一つの方法である。
 
(2) 分人の間の矛盾をむしろ積極的に評価しようとする。
 ⑤その矛盾を自分の中に抱え込んで、外には出さないようにする。これは上記の②と似ている。ただし、②の場合には、自己内に矛盾を抱えることをやむを得ざることとして受け入れるのだが、ここでは自己内の矛盾を積極的に評価している。⑤の場合、矛盾する複数の分人の有り様をそれぞれ積極的に評価する場合と、それぞれの分人の有り様そのものよりも、むしろそれらの矛盾を生きていること自体を(例えば、自由の証ないし自由そのものとして)積極的に評価する場合も考えられる。
 ⑥その矛盾を社会化ないし「政治化」(中野敏男)し、社会を変えようとする。これは、矛盾する一方あるいは両方の分人が属している共同体を変えるということであろう。これは、矛盾を自己の中で解消解決しようとするのはなく、社会を変えることによって解消しようとしているのかもしれない。その意味では、長期的には、矛盾の解消をめざしているのかもしれない。
 ムフは「根源的かつ多元的な民主主義にとって、紛争の最終的解決がやがて可能となるとの信条は、[…]決して民主主義のプロジェクトの必然的な地平を提供するものではなく、むしろそれを危殆に陥れるものと言うべきであろう」
(ムフ『政治的なものの再興』
p.16)というので、個々の矛盾は解決されたとしても、社会全体が「自由かつ抑制なきコミュニケーションの整序的理想へ」近づくことはないと考えている、またそれをむしろ危険なことと考えている。
 
 これら以外の分人間の矛盾への対応もあるかもしれない。そして、これらの対応の各々についても立ち入った分析をすることが有益だろうと考える。しかし、そもそも人はなぜ複数の分人や主体位置をもつことになるのだろうか。これについて、次に考えてみよう。