5 表現の意味への疑い  (20200722)

[カテゴリー:問答と懐疑]

 例えば、「これはテロだろうか?」という問いは、「テロ」の定義を前提したうえで、「これ」が指示する対象がその定義に当てはまるかどうかを問うており、事実に関する問いであり、経験的疑いである。これに対して、「これを「テロ」と呼べるだろうか?」という問いは、「テロ」の意味ないし定義が曖昧なので、この問いへの答えによって、「テロ」の意味ないし定義を明確にしようとしており、表現の意味への疑いである。

 ところで、いわゆる「規則遵守問題」(following rule problem)もまた、表現の意味への疑いの一種だと思われる。

規則遵守問題とは、ウィトゲンシュタインが指摘した問題であり、次のような生徒に、+2の規則に従うことをどうやって教えるのかという問題、あるいは、私たちが+2の規則を知っていると思っているときに、それが正しいことをどうやって正当化できるのかという問題である。

「生徒に1000以上のある数列(例えば「+2」を書き続けさせる、すると、かれは1000、1004、1008、1012と書く。われわれはかれに言う、「よく見てごらん、何をやっているんだ!」と。–かれにはわれわれが理解できない。われわれは言う。「つまり、君は2を足していかなきゃいけなかったんだ。よく見てごらん、どこからこの数列をはじめたのか!」–かれは答える、「ええ!でもこれでいいんじゃないのですか。ぼくはこうしろと言われたようにおもったんです。」――あるいは、かれが、数列を示しながら、「でもぼくは〔これまで〕おなじようにやってきているんです!」と言った、と仮定せよ。――このとき、「でもきみは……がわからないのか」と言い――かれに以前の説明や列を繰り返しても、何の役にも立たないだろう。」(ウィトゲンシュタイン『哲学探究』藤本隆史訳、『ウィトゲンシュタイン全集8』大修館書店、1976、186節)

私たちは通常は「+」の意味を考えたりしない。「1000+2はいくらか?」と問われたときも、「+」の意味など考えずに、即座に「1002です」と答える。しかし、上記のような生徒に出会ったとすると、私たちは途方に暮れて、「+」の規則を説明しようとするだろう。しかし、「+」の意味は、その使用の規則に他ならず、その使用の規則は、「+」の計算の例をあげて示すしかない。どんなにたくさんの例を挙げても、すべての事例を枚挙することはできない。そして、いまだ例に挙げていない「+」の計算にであったときに、自分とは異なる答えを出す者があるとき、自分の答えを正当化しようとすれば、他の人々の賛同を求めるしかないだろう。

 ところで、〈疑い〉は、(信念や主張の)命題の真理性についての問いである。ここでは、「+」の使用規則が問題になっているが、この使用規則を命題で明示することができないので、「+」の使用規則を疑うということはありえない。疑うことができるのは、「1000+2=1002」という具体的な計算式(命題)である。

 それでは、規則遵守問題についてどのように理解して、どのよう受け止めればよいのか、それは本当に「意味への疑いの一種」なのか、など、これから考えたいと思います。