23 四肢構造と二重問答関係 (5) (20200706)

[カテゴリー:問答推論主義へ向けて]

 廣松は、実践における主体を、二肢性「能為的誰某-役柄的或者」においてとらえる。私たちの行為はすべて社会的文化的に他者から期待されている行為であり、ある役割をもつ行動(役割行動)である。

「挨拶などの日常的な儀礼行為からして演技であり、食事の仕方や排せつの仕方のごときまで、人間行動の様式は文化共同体に内属する他人たちによって期待されている行為方式に応ずる役割演技の構制になっており、まさに「呼吸の整え方」から「箸の上げ下ろし」に至るまで、人間行動はことごとく役割行動として営まれていると言って過言ではない。」(『存在と意味』第二巻、p.107)

「能為的主体の他の能為的主体の期待に応えての行動を役割的行動と呼ぶ。」(『存在と意味』第二巻、p.99)

一定の役割行為をまとめて行うことで、社会の中である<役柄>を行うことにある。役割行為を行うことは、ある役柄を引受けることである。ある<役柄>はいくつかの<役割>の束であり、ある<役割>はいくつかの<行為>の束である、と言えるだろう。それゆえに、私たちが行為する時、「役柄的或者」として行為することになる。私たちは、常に何らかの役柄、「男性」「夫」「父親」「会社員」「課長」などとして行為する。

 ところで、廣松は「役柄的或者」として行為する者を「能為的誰某」とよぶ。例えば、「人が課長として、部下に指示する」とき、「人」が「能為的誰某」である。この時の人は、「社会人」や「会社員」や「男性」などの役柄をまとっているかもしれない。これらの個々の役柄を脱ぎ捨てることはできるとしても、全ての役柄を脱ぎ捨てることはできない。「裸の主体」「裸の私」というものは存在しない。<形相のない質量>がないように、<役柄のない行為主体>は存在しない。

 そこで能為的誰某自身もまた、さらに分析するならば、二肢構造「能為的誰某-役柄的或者」を持っていることが分かるだろう。たとえば「課長は、コロナ感染者として、会社を休む」というとき、先の「課長としての人」自身は、「コロナ感染者」という「役割的或者」と結合するとき、「能為的誰某」となる。このように主体の二肢構造についても、対象の二肢構造の場合と同様に、第一肢はそれ自体が下位の二肢的統一態でありうるし、この二肢的統一態自体が、第一肢となって、より上位の二肢的統一態を構成しうる。

 主体の役柄は、他の役柄と結合している。例えば、「父親」の役柄は、「母親」「子供」「息子」「娘」などの役柄との関係において成立し、「課長」の役柄は「部長」「係長」などの役柄との関係において成立する。したがって、役柄的或者は、他の役柄的或者との、役柄の相互承認によって成立する。

 実践的主体の二肢の在り方と、実践の対象(財態)の二肢の在り方は、次のように関連している。

「財態「実在的所与-意義的価値」の現前様態は主体「能為者誰某-役柄者或者」の形成相在に応じて変容し、返っては亦、主体の在り方は財態の現前仕方に応じて変貌する。」(『存在と意味』第二巻、p.190)

 次に、この実践の四肢構造を二重問答関係の観点から考察したい。