6 蝶番は問いの前提である(20200723)

[カテゴリー:問答と懐疑]

ウィトゲンシュタインは、全てを疑うことへの批判として「蝶番」の比喩を持ち出す。『確実性の問題』の中でこれが登場するのは、3か所だけであるので、引用しておこう。まず、最初の二か所は、つぎの341と343にある。

「341 すなわち、われわれが立てる問題と疑義は、ある種の命題が疑いの対象から除外され、問や疑いを動かす蝶番のような役割をしているからこそ成り立つのである。

342 つまり科学的探究の論理の一部として、事実上疑いの対象とされないものがすなわち確実なものである、ということがあるのだ。

343 ただしこれは、われわれはすべてを探求することはできない、したがって単なる想定で満足せざるをえないという意味ではない。われわれがドアを開けようと欲する以上、蝶番は固定されていなければならないのだ。」(ウィトゲンシュタイン、『確実性の問題』黒田亘訳、『ウィトゲンシュタイン全集9』大修館書店)

ここで考えられている「疑いの対象から除外される命題」や「問や疑いを動かす蝶番のような役割をしている」命題とは、「問いや疑いの前提」であるだろう。ちなみに、「問いや疑いの前提」とは、問いや疑いが真なる答え、あるいは適切な答えを持つための必要条件であり、「疑い」とは命題の真理性ありは適切性への問いである、と考えたい。

 「蝶番」の第三の使用例は、次である。

「655 数学的命題には、いわば公式に、反駁不可能のスタンプが押されている。すなわち、「異義は他の命題に向けよ。これは君の異論の支えになる蝶番であり、動かすべからざるものである」と。」

ここで蝶番とされる「数学的命題」の例として「12×12=144」が挙げられている。一ダース入りの鉛筆を12箱(1グロス)鉛筆の数を数えたときに、145本あったとしても、私たちは、12×12の計算をやり直したりせず、鉛筆を数えなおすだろう。計算ミスはあるだろうが、何度か確認した後の計算結果は、通常は、計算結果は蝶番として使えるものである。

 すべての問いや疑いがこのような蝶番を持つが、私たちはどのような蝶番についてもその真理性や適切性を問うことができるだろう。なぜなら、蝶番は命題であり、どのような命題についても、「本当にそうなのか?」とか「なぜそうなのか?」と問うことができるからである。(ただし、この問いもまた蝶番を必要とするので、全てを同時に疑うことはできない。しかし、同時でなく、交互にすべての蝶番を疑うことならば、可能であろう。これについては、後で考えよう。)

 すべての疑いについて、その蝶番をさらに疑うことが可能である。問いや疑いは、多くの前提(蝶番)をもつだろうから、それらについて多くの疑いが可能になる。

 「経験的疑い」の蝶番は、経験的命題、論理的数学的命題、意味論的命題、哲学的命題であり、「論理的数学的疑い」の蝶番は、論理的数学的命題や意味論的命題や哲学的命題であり、「意味論的疑い」の蝶番は、意味論的命題、哲学的命題であり、「哲学的疑い」の蝶番は、哲学的命題である、と予想する。これらの蝶番命題について、さらに疑うことが可能である。

 規則遵守問題では、まず論理的数学的疑いとして始まり、次にその蝶番である、論理的数学的命題、意味論的命題、哲学的命題などについての疑いを引き起こすことになっている。