01 問うことと疑うこと  (20200717)

[カテゴリー:問答と懐疑]

 私たちが〈疑う〉のは、事実ではなく、真であったり偽であったりする信念や主張である。私たちは、事実を疑うことはできない。なぜなら事実は偽でありえないからである。疑いの対象は、命題であり、疑うことは命題的態度の一つである(「命題的態度」とは命題を対象とする心的態度、信じる、欲する、願う、問う、語る、など、である。)。たとえば、「命題pは真だろうか?」と問うことは、命題pを疑っているといえいる。また、「コロナの重傷者は本当に減っているのだろうか」と疑うことは、マスコミで語られている「コロナの重傷者は減っている」という発言の信ぴょう性を疑っている。このように他者が主張していた命題や、自分が信じていた命題の真理性を問うことが、疑うことだと言えるだろう。

 これに対して、私たちは事実を〈問う〉ことができる。例えば、「それは何ですか」「これはベジマイトです」という問答において、この問いは事実について問うている。この問いの対象は、物であり、問いは、物や事実を対象とする。

 ところで疑うことは、上記の例からわかるように、問うことでもある。したがって、疑うことは、問うことの一種である。問うことが、主張や信念の真理性を問うことであるときに、疑うことであり、その他の場合には、問うことであると言えるだろう。

 問うことと疑うことの区別については、ウィトゲンシュタインの次の発言があるので、これと上の主張を関係づけておこう。。

「6.51問うことが不可能なところで疑おうとするのなら、懐疑論は論駁しえないのではなく、明らかに無意義なのである。

 何故なら、懐疑が存立しうるのは問が存立する限りであり、問が存立しうるのは解答が存立する限りであり、そして解答が存立しうるのは、何事かを語るのが可能な限りだからである。」(奥雅博訳『論理哲学論考』、『ウィトゲンシュタイン全集』第1巻、大修館書店 p.119)

ここでの「懐疑が存立しうるのは問が存立する限りであり」という発言は、「問いが成立することによってのみ、疑うことが可能になる」と言い換えることができるだろう。これは、つぎのような理解であると思われる。

この引用の直前でウィトゲンシュタインは、問いと答えの関係について次のように言う。

「6.5 表明できない解答に対しては、その問も表明することができない。

謎は存在しない。

いやしくも問を建てることができるならば、その問いにこたえることもできる である。」(奥雅博訳『論理哲学論考』、『ウィトゲンシュタイン全集』第1巻、大修館書店 p. 118)

問いへの答えは、自分の信念や他者に対する主張となるだろう。それらは命題形式をとる。主張や信念は、それについて問いを表明することができる、言い換えると問いへの答えとなりうる。問いへの答えとなりえない命題は、主張や信念とはなりえない。したがって、その命題を答えとする問いを問えなければ、命題を信じたり主張したりすることは不可能である。そして、命題を信じたり主張したりすることが不可能であるとすると、その命題を疑うことも不可能である。それゆえに、「問いが成立することによってのみ、疑うことが可能になる」ということになる。

この6.5の内容に私は賛成である。ただし、ウィトゲンシュタインは、6.5を断言しているだけで、証明してはいない。この証明については、懐疑についての考察を重ねた後で取り組みたい。ところで、解答が知識であるとすると、知識は問いに対する答えとしてのみ成立するということになる。つまり、6.5は問いと知識の関係を述べたていると言える。