[カテゴリー:問答と懐疑]
山田圭一は『ウィトゲンシュタイン最後の思考』の第2章において、「外的世界」「他人の心」「過去の実在」に共通して適用できる懐疑論の論法を提示している。例えば、「外的世界」に対する懐疑を次のように説明する。
<①「ここに椅子がある」という主張を疑うためには、まずこの主張の根拠として、②「私は椅子を見ている(感じている)」を想定する。次に②が①の根拠として不十分であることを示すために、懐疑論的仮説③「私は悪霊によって欺かれている」を想定する。②と③は両立可能である。しかしもし③が正しければ、①は誤りである。ゆえに、②は、①の根拠としては不十分である。したがって、①「ここに椅子がある」という主張は疑わしい。>
山田氏はこれを次のように整理している。
(1)外的世界に対する懐疑論
①〈被証明項:日常的命題〉
「ここに椅子がある」
②〈証明項:①に対する日常的証拠〉
「私は椅子を見ている(感じている)」
→②’再記述された証明項
「私は椅子の視覚印象(感覚)をもっている」
③〈懐疑論的仮説〉
「私は悪霊によって欺かれている」(外的世界の対象は存在していない)
(⟷③’〈日常的前提〉「外的世界の対象が存在する」)
④〈証明不可能性の論証〉
②の証拠によって、③でない(③’である)ことを根拠づけることができるか→できない。
⑤〈正当化の否定〉
私は②’(再記述された証拠)を根拠に①(日常的命題)を信じることが正当化されていない。
⑥〈結論:正当化の否定 最終段階〉
私は②’(再記述された証拠)を根拠に①の種類のすべての命題を信じることが正当化されていない。
ここで重要なのは、主張①とその根拠②と懐疑的仮説③の関係である。①と③は両立不可能であるが、②と③は両立可能である。それゆえに、もし③が正しければ、②は①を証明する十分な根拠とはならない。
この論法を「他人の心」と「過去の実在」に適用したものを次に引用しておこう。
(2)他人の心に対する懐疑論
①〈被証明項:日常的命題〉
「彼は痛みを持っている」
②〈証明項:①に対する日常的証拠〉
「彼は痛みの振る舞いをしている」
→②’再記述された証明項
「彼は顔の筋肉をゆがめて、お腹をおさえている」
③〈懐疑論的仮説〉
「彼は自動機械である」(彼は心をもっていない)
(⟷③’〈日常的前提〉「彼は心をもっている」)
④〈証明不可能性の論証〉
②の証拠によって、③でない(③’である)ことを根拠づけることができるか→できない。
⑤〈正当化の否定〉
私は②’(再記述された証拠)を根拠に①(日常的命題)を信じることが正当化されていない。
⑥〈結論:正当化の否定 最終段階〉
私は②’(再記述された証拠)を根拠に①の種類のすべての命題を信じることが正当化されていない。
(3)過去の実在に対する懐疑論
①〈被証明項:日常的命題〉
「日露戦争は100年前におこった」
②〈証明項:①に対する日常的証拠〉
「日露戦争について書かれた100年前の文書が残っている」
→②′再記述された証明項
「100年前の日付(「一九〇四年」という文字)のついた文書に日露戦争についての記述がある」
③〈懐疑論的仮説〉
「地球は5分前に創られた」
(⟷③′〈日常的前提〉「地球は私が生まれる遥か以前から存在していた」)
④〈証明不可能性の論証〉
②の証拠によって、③でない(③′である)ことを根拠づけることができるか→できない。
⑤〈正当化の否定〉
私は②′(再記述された証拠)を根拠に①(日常的命題)を信じることが正当化されていない。
⑥〈結論:正当化の否定 最終段階〉
私は②′(再記述された証拠)を根拠に①の種類のすべての命題を信じることが正当化されていない。
この懐疑の論法は、哲学的な懐疑に限らず、日常の疑いにも使えるものである。それを次に確認しよう。