18 この世界の片隅で、諸行無常(可謬主義)を生きることはできるのか? (20201130)

[カテゴリー:日々是哲学]

映画『この世界の片隅で』の英語タイトルを知ったとき、少し驚きました。それが“In This Corner of the World”だったからです。これは直訳すれば「世界のこの片隅で」となります。私なら“In a Corner of This World”としていたでしょう。その理由は、「この世界」という言葉が、「あの世界」(「あの世」)と対になっていると考えるためです。これは仏教用語です。つまり、「この世界」という表現には、この世界は諸行無常の世界である、という意味が暗黙的に込められていると思っていました。(実際の英訳タイトルにも、また理由があるのだろうと思います。私が想定していた訳では、英語圏の人にはうまく伝わらないのかもしれません。)

 私たちは、諸行無常を生きることができるのでしょうか。大乗仏教圏に住む者にとっては、諸行無常は空気のように自明な事柄であり、私たちは日々そのような世界を生きているのではないでしょうか。しかし、ハーバーマスならば、おそらくそのような世界で生きることはできないと言うでしょう。

 現代哲学においては、あらゆる知が可謬的であることは、自明なこととして認められています。ハーバーマスもそれを認めますが、しかし彼は同時に、可謬主義を生きることはできないと言います。

「反省的な態度をとったときのわれわれは、いっさいの知が可謬的であることを知っている。だが、日常生活においてわれわれは、仮説だけで暮らしていくことはできない。つまり何から何まで可謬主義的な態度で生きていくことは無理である。」(ハーバーマス『真理と正当化』三島憲一、大竹弘二、木前利秋、鈴木直訳、法政大学出版局、p. 308)

「素人や専門家が用いている知を確実でないと思い続けるなら、あるいは、さまざまな事物の製造や課題の遂行に使用されている前提を真でないと思い続けるなら、われわれは橋に足を踏み入れることもできなければ、車を使うことも不可能だし、手術に身を任せることもならず、おいしく調理された料理を楽しむことも無理となろう。」(同書、p. 308)

そうでしょうか。橋は絶対に落ちないと信じていなくても、私たちは橋を渡るのではないでしょうか。私たちは、不確実な世界、可謬主義を生きざるをえないし、生きることができるのではないでしょうか。私たちは、諸行無常を生きているのではないでしょうか。

 これに対して、ハーバーマスは、可謬主義を生きることができない理由を、次のように言います。

「いずれにせよ行為確実性を遂行する必要性は、真理への原則的留保を無理なものとしている。[…] 実践においては「真理」が行為確実性を支えるのに対して、そうした諸々の「真理」は、ディスクルスにおいては、真理請求のための準拠点を提供してくれている。」(同書、p. 308)

この行為確実性は、(ハーバーマスは言及していないのですが)アンスコムの言う実践的知識の確実性のことだろうと思います。人は「何をしているの?」と問われたとき、観察なしに即座に、例えば「コーヒーを淹れています」のように答えることができます。この答えが、「実践的知識」です。ハーバーマスの言う「行為確実性」というのは、この実践的知識の確実性のことだろうと思います。行為するときには実践的知識が可能であり、それが不可能であるとすると、行為できないでしょう。「何をしているの?」と問われたり自問したときに、答えられないとしたら、行為を続けることは不可能になるからです。その意味では、実践的知識は確実です。

 しかし、(アンスコムも認めるように)このような実践的知識は間違えることもあります。例えば、コーヒーを淹れているつもりだったのだが、ココアの粉を使っていたということがありうるからである。おそらくハーバーマスもこのような間違いの可能性を認めるだろう。しかし、行為している時には、その行為の知を可謬的であると考えることはできないと言うのだろう。

 これに対して、私は、実践的知識の可謬性を意識しつつ、行為することは可能であると思います。

このことを明確に証明するにはどうしたらよいでしょうか。

04 行為の推論関係 (20201128)

[カテゴリー:哲学的人生論(問答推論主義から)]

01と02での説明には曖昧なところがあるので、もう少し厳密に考えてみよう。人生は行為や出来事からなり、人生の意味も、行為や出来事の意味からなると考えることにしよう。さらに、行為や出来事の意味は、行為の上流問答推論や下流問答推論であるとしよう。

 では、行為の上流問答推論とは何だろうか? 私のある行為は、実践的推論をもつが、その大前提は、私の意図である。(実際には実践的推論の前提は私の意図だけからなるのではないが、もしかりに私の意図だけからなるとすると、その上流推論と下流推論もまた私の意図だけからなり、行為に関する推論関係は、私の意図の内部に閉じることになる。すると、私の人生の意味をそのような推論関係から説明することはできなくなるだろう。なぜなら、私の人生の外部に出ることができないからである。)

 「どうやって意図Iを実現したら良いのか?」という実践的問いに、答えるための実践的推論は、次のようになる。

    私はAを実現したい。(意図I)

    Bを実現するならば、Aが実現する。(原因結果関係、自然的な因果関係とは限らない。)

    ∴私は、Bを実現しよう。(事前意図)

(結論の意図から直ちに行為に移れないときには、「その意図をどうやって実現したら良いのか」という実践的問いを立て、それに答えるために実践的推論をする必要がある。この下降は、理論的には「基礎行為についての事前意図」にたどり着くまで行うことができるが、実際には、その前の「複合的な行為についての事前意図」で直ちに行為に映ることが多いだろう。「基礎行為」ないし「基礎的行為」については、『問答の言語行為』や私の講義ノートで説明しているが、今回の焦点は、実践的推論の「結論」ではなく「前提」にあるので、説明を省略する。)

 今回注目したいのは、原因結果関係を記述している「小前提」である。(実践的推論の場合、何を「大前提」とよび何を「小前提」と呼ぶか、おそらく一般的な決まりがないと思うが、以下では便宜上、意図(あるいは欲求や目的)を表現する前提を「大前提」、(自然的因果関係に限らない)原因結果関係を記述している前提を「小前提」と呼ぶことにしたい。)

 この小前提には、自然的な因果関係、他者の発言、他者の希望、社会的関係(私はいくらお金を持っているのか、私の国籍はなにか、隣の人はどんな人か、私の会社は何をしているのか、コロナはどうなるのか、景気はどうなるのか、など行為に関わるあらゆる事柄)、社会的規範(法や道徳など)、などが含まれるだろう。実践的推論を意識しているときには、意識されている前提はこれらのごく一部であり、大部分は推論の「背景」として機能しているだろう。私の実践的推論は、このようにして、他者の言葉や行為の影響を受けており、社会的規範や社会の仕組みの影響を受けている。このときの実践的推論は、私の(言葉や行為の)事前意図を結論としており、私の言葉や行為の上流推論になっている。

 同時にまた、私の言葉や行為は、他者の実践的推論の小前提ないし背景となり、それに影響を与えている。このとき、他者のこの実践的推論は、私の言葉や行為の下流推論となっている。

 私の言葉や行為の「意味」は、このような上流推論と下流推論によって明示化される。

 では、このような「意味」の集積が、私の「人生の意味」だと言えるだろうか。

 03: 「人生の意味は何か?」という問いもまた上位の問いをもつ(20201127)

[カテゴリー:哲学的人生論(問答推論主義から)]

「人生の意味は何か?」と問うことは、他の行為と同じように、目的を持つだろう。その目的設定を、問いの形式で理解する時、「人生の意味は何か?」という問いもまたより上位の問いを持つということができる。

 上位の問いは、若い人にとっては、「私のこれからの人生をより意味のあるものにするにはどうしたらよいのか?」であるかもしれない。

 中年の人にとっては、「私のこれまでの人生はこれでよかったのだろうか。このまま進めてよいのだろうか?」であるかもしれない。

 晩年の人にとっては、「私は、人生をどのように閉じればよいのだろうか?」であるかもしれない。

 終末期の人にとっては、「私は死をどのように受け入れたらよいのだろうか?」であるかもしれない。

ヘーゲルの哲学体系の最後は歴史哲学で、歴史哲学講義の最後は次の言葉で締めくくられています。Leben Sie wohl!

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以上が私の最後の講義の最後の部分でした。

さて次回からこの続きを考えます。

 02: 出来事としての人生の意味 (20201126)

 [カテゴリー:哲学的人生論(問答推論主義から)]

ある人の人生がその行為の全体であるとしても、他人から見ればその行為の全体は、一連の出来事に過ぎない。それゆえに、人の人生を一連の出来事として捉えることができる。このとき、人生の意味は、出来事の意味の一種である。

<ある出来事の意味とは、その出来事の記述を結論とする上流推論とその出来事の記述を前提とする下流推論の全てである>と言えるのではないだろうか。<人生を記述する命題を結論とする上流推論とその命題を前提とする下流推論の全体が、その人生の意味である>。簡単に言ってしまえば、<私の人生の意味は、私が誰からどのような影響を受けて行為したのか、私の行為が、誰にどのような影響を与えたのか>ということに尽きる。

もしある行為に道徳的な価値があるとすると、それはその行為に至るプロセスとその行為から帰結する出来事に道徳的な価値があるということになるだろう。

<行為にいたるプロセスに道徳的価値があれば、その行為から何が帰結するかは問題ではない>という立場を、「上流推論主義倫理」と呼ぶことにしよう。心情倫理は、この一種である。心情倫理は、行為を決定する心的プロセスに道徳的価値があれば、行為は道徳的価値をもつことになり、その行為から何が帰結するかは問題ではない、と考える(例えば、カント)。

この逆の立場<行為の帰結に意義があれば、その行為に至るプロセスは問題ではない>という立場を「下流推論主義倫理」と呼ぶことにしよう。帰結主義は、この一種である(例えば功利主義)。

ある行為についての、上流推論主義倫理の評価と下流推論主義倫理の評価が対立するとしても、そこには矛盾はない。それは行為の別の側面に対する評価の違いだからである。では、この二つの評価が食い違う時、どのように調停すればよいだろうか?その場合には、下流推論主義倫理を優先させるべきである。何故なら、上流推論は行為を答えとする問いに答える過程であるが、下流推論は、その問いを問うより上位の目的ないしより上位の問いに答えるための推論だからである。

 行為の上流推論の前提には、状況判断や欲求や意志の弱さや慣習なども含まれるかもしれない。したがって、上流推論主義倫理が、カント的な自律の道徳になるとは限らない。カントのように意志決定の自律と他律を峻別できるかどうかは検討が必要である。なぜなら、意志決定は実践的推論によって行われ、その大前提に定言命法が用いられるとしても、小前提には経験的な命題が必要であろうし、また定言命法の理解についても複数の解釈がありうるだろうから、そのようなことを考慮するならば、自律と他律を区別することは困難であるかもしれないからである。

01: 行為の意味としての人生の意味 (20201125)

[カテゴリー:哲学的人生論(問答推論主義から)

(初回01から03まで、私の大学での最後の秋冬学期講義の最終回(20190213)(https://irieyukio.net/KOUGI/tokusyu/2018WS/2018ws14Last.pdf)の一部を抜粋したものになります。その後、その続きを考えたいと思います。)

ある人の人生をその人の行為の全体だとしよう。このとき、ある人の人生の意味は、その人の行為全体の意味である。

ふつう行為の意味とは、行為を行うより上位の目的である。より上位の目的は、多くの場合は、別の行為である。ある人の人生の意味とは、その人が人生をかけて行ってきた行為全体のより上位の目的のことである。

例えば、ある人が、子供に財産を残そうと意図してお金を貯えて、財産を残して死んだとすると、子供がその財産を相続することが、彼女の人生のより上位の目的であり、人生の意味である。

例えば、ある人が、環境保護のための運動をおこなったとして、彼女の人生の目的は地球環境の保護であり、それに貢献できたとすれば、それが彼女の人生の意味である。

 人生の意味は、その人が、その人の行為の全体によって引き起こそうとしている出来事である。その結果は、他の人(や集団や社会)に生じる出来事である。復讐が人生の目的の場合もありうるので、その結果が他の人にとって良いこととは限らないが、多くの場合には、他の人にとって良いことであり、それを惹き起こすことが、人の人生の意味である。

 もしこの答えに満足できないとすると、それは個人主義のためであるかもしれない。<ひとは、個人として他者から独立して存在しており、対他者関係はその本質ではない>と考えるならば、<個人の生きがいや人生の目的も、他者との関係から独立して存在するはずだ>と考えることになるからである。

14 あとがきのあとがき (20201122)

[カテゴリー:『問答の言語哲学』をめぐって]

 前回で第1章から第4章の内容紹介が終わりました。

 本書で採用した推論主義的アプローチの基本は、命題の意味をその上流推論関係と下流推論関係によって明示化するということにありました。本書では、この推論主義アプローチを、問答推論関係へ拡張し、発話の意味や言語行為にも展開することを試みました。

 本書における問答の言語哲学の研究が、どういう意味を持つかは、そこからどのような下流推論が可能になるか、つまりそれを認識、実践、社会問題に適用するときに何が帰結するか、に依存するでしょう(とりあえずは、問答推論主義アプローチを認識に適用することが私の次の仕事になります)。本書に残されている課題としては、問答の観点から照応関係、文法構造を考察すること、問答論理学の形式化などがあるが、これらは、本書の議論にとっての上流推論を仕上げるという課題になるでしょう。

本書が成立するには、多くの先人の仕事、多く研究者や学生からの刺激が必要だったのですが、この関係は、本書成立の上流推論となっています。本書がどのような下流推論を持つことになるのかは、読者の方々がそこから何をくみ取ってくださるかにかかっています。本書の意味は、このような上流推論関係と下流推論関係によって明示化されることになります。

一つの命題の意味がそれだけで成立するのではなく、他の命題との関係の中で成立するのと同様に、書物の意味もまた一冊だけで成立するのではなく、他の書物との関係(インターテクスチャリティー)の中で成立します。作品の意味は、またジャンルを超え、媒体を越えて、他の作品と問答推論関係を持っています。人間の生きる意味もまた、他の人との関係の中で、また関係を越え、共同体を越え、時代を越えて、他の人々と問答推論関係のなかで構成され明示化されると思います。今後もこのように偏在する問答推論関係を分析したいと思っています。

ご批判、ご質問、感想をお待ちしています。

13 第4章の見取り図 (4) (20201121)

[カテゴリー:『問答の言語哲学』をめぐって]

「4. 4 超越論的論証の限界」では、問答論的矛盾を用いた超越論的論証は、他の超越論的論証と同様の限界をもち、究極的な根拠づけにはなっていないことを説明しました。

 まず超越論的論証一般の限界を説明しました。それは、超越論的論証が、古典論理を前提して成り立つ論証であるということにあります。それは次のような事情です。

 今仮に、命題T が、真なる経験的命題E の超越論的条件であることを証明するとします。この場合には、

   E → T

が成り立ちます。これを証明するには、この対偶

   ¬T→¬E

を証明すれば、古典論理に基づいて、これからE→Tを導出することができます。

 ¬T→¬E の証明は、次のように行うことができます。例えば、T が「私が存在する」であり、E が「私はpを主張する」であるとすると、¬T→¬E は、「もし私が存在しなければ、私がpを主張することはない」となります。これは自明であるかもしれませんが、この自明性は、日本語の「存在する」や「主張する」の意味に基づいています。ここでは仮に、これらの語の意味の理解については問わないことにして、仮に¬T→¬E が成り立つとしましょう。その場合、それに続く超越論的論証は、次のようになります。

    1(1)¬T→ ¬E     仮定

    2(2)¬T        仮定

   1, 2(3)¬E       (1)(2)MP

     4(4)E         仮定 

 1, 2, 4(5)¬E&E     (3)(4)&+

     1, 4(6)¬¬T      (2)(5)¬+

     1, 4(7)T              (6)二重否定消去

       1(8)E → T         (4)(7)→ +

この証明の(6)から(7)のステップにおいて、「二重否定消去」を使用しています。しかし、この推論規則は、古典論理では認められますが、直観主義論理では認められないものです。その意味で、超越論的論証は、古典論理の採用を前提しています。

 もし、このような論証で究極的な根拠づけを行うとすれば、古典論理の採用を正当化する必要がありますが、それはなされていません。これが、超越論的論証の論証としての限界です。

 問答論的矛盾による超越論的論証の場合にも、ある問いに対して否定の返答が、問答論的矛盾を引き起こすことを介して、肯定の返答の必然性を証明しました。ここでも、この最後のステップで「二重否定消去」を用いており、古典論理の採用を選定するという限界を持っています。

『問答の言語哲学』の「序文」全文が掲載されました(20201120)

拙著の「序文」全文が「けいそうビブリオフィル」の「あとがきたちよみ」コーナーに掲載されました。ぜひご覧ください。https://www.keisoshobo.co.jp/book/b535722.html

ここでの内容紹介の方も継続します。

12 第4章の見取り図 (3) 超越論的論証 (20201116)

[カテゴリー:『問答の言語哲学』をめぐって]

「4.3 問答論的矛盾による超越論的論証」では、表題通り、問答論的矛盾を用いて、いくつかの超越論的論証を行います。

 ある問いに対する答えが、問答論的矛盾を引き起こすならば、それを避ける答えを行うことが、問答関係を成立させるための必要条件(超越論的条件)となります。ある問いに対する特定の返答のこのような必然性を「問答論的必然性」と呼ぶことにしました。ここでは、問答論的矛盾をもちいて、問答関係の成立条件についての超越論的論証を行いました。

 まず、問答関係の基礎的超越論的条件として3つを説明しました。

  「私の声が聞こえますか?」

    「いいえ、聞こえません」

  「私の言葉がわかりますか?」

    「いいえ、わかりません」

  「誠実に話していますか?」

    「いいえ、誠実に話していません」

これらの否定の返答は、問答論的矛盾を引き起こすので、このように問われたときには、肯定の返答をすることが問答論的必然性を持ちます。そこで次の3つが問答関係の基礎的超越論的条件になります。

 (1) 会話者が互いに声を聞くことができる(絡路の相互確認)

 (2) 会話者が相互の言語を理解できる(言語の相互理解)

 (3) 会話者が互いに誠実に話している(誠実性の相互確認)

次に、問答関係の意味論的超越論的条件を考察しました。詳細は省きますが、それは次のようなものです。

 (1)照応関係

 (2)タイプとトークンの区別

  (3)言語の規則に従うこと

次に、問答関係の論理的超越論的条件を考察しました。

 (1)同一律

 (2)矛盾律

次に、問答関係の規範的超越論的条件について考察しました。

 (1)根拠を持って語る義務

 (2)嘘をつくことの禁止

 (3)相互承認の義務

これらは、問答関係が成り立つための超越論的条件の網羅を意図したものではありません(おそらくこれら以外にもあるだろうと予想します)。重要なことは、これらが問答関係が成り立つための超越論的条件であるということです。

11 第4章の見取り図 (2) 問答の照応関係と問いの前提 (20201113)

[カテゴリー:『問答の言語哲学』をめぐって]

「4.2 問答関係の分析」では、一般的な問答関係と問答論的矛盾の関係を考察します。

この前半では、問答が照応関係を必要とすることを確認した上で、問答論的矛盾がその照応関係を妨げることを説明します。

 「昨日私は奇妙な人に会いました。彼女は変わった帽子をかぶっていたのです。」

という文があるときに、「彼女」という代名詞は、ここで「照応詞」として使用されています。「彼女」は、「奇妙な人」を指します。正確には、「奇妙な人」が指示する人を指示します。そのとき「奇妙な人」を「先行詞」と呼びます。照応関係は、名詞(名詞句)に限らず、動詞、形容詞、副詞などにも見られ、ありふれているけれども大変興味深い現象です。

ところで、ある疑問文の発話とそれに続く平叙文の発話が、問答の関係にあるときには、平叙文の中の一部の表現が、照応詞ないし照応表現として、問いの中の表現をその先行詞としている必要があります。なぜなら、問いは答えの半製品であり、答えの一部はすでに問いの中に現れている必要があるからです。例えば

  「このリンゴは何ですか?」

    「はい、それはマッキントッシュです」

の「このリンゴ」と「それ」が照応関係にないとしたら、これは問答になりません。

ところで、問答論的矛盾を引き起こす問答の場合には、この照応関係が成り立ちません。例えば、

  「私の言うことが聞こえますか?」

    「いいえ、あなたの言うことが聞こえません」

返答の中の「あなたの言うこと」は、問いの中の「私の言うこと」が指示するものを指示する必要があります。しかし、聞こえないならば、この照応的な関係自体が成り立たないはずです。以上から、問答論的矛盾を惹き起こす問答の間には、適切な仕方で照応関係が成立していないと言えます。

後半では、「問いの前提」について一般的に説明し、それと問答論的矛盾の関係について考察しました。発話一般の前提については、第3章の3.2で説明したのですが、問いの前提については触ていませんでした。ここでは問いの前提について、まず一般的に説明します。問いの発話は、意味論的前提と語用論的前提を持ちます。

問いの「意味論的前提」については、Belnapの提案を拡張して、、問いが真なる(あるいは適切な)答えを持つための必要条件と考えました。例えば、「フランス王はハゲていますか?」という問いの意味論的前提は、「フランス王が存在する」となります。

問いの語用論的前提とは、質問という発語内行為が成立するための必要条件であり、質問発話の誠実性と正当性です。例えば、

 ・答えを知らないこと

 ・答えを求めていること

などが誠実性に関わる語用論的前提となります。

また正当性にかかわる前提としては、例えば、「明日の会議に出席しますか?」と問う場合には、その質問者が、相手にそれを尋ねる資格があること、質問者が相手がその会議に出席する資格があると信じていること、などになります。

では、このような問いの意味論的前提と語用論的前提は、問答論的矛盾とどう関係するでしょうか。次の問答論的矛盾の問答で考えてみましょう。

  「あなたは私の言うことが聞こえますか?」

    「いいえ、私には、あなたの言うことが聞こえません」

この否定の返答は、(詳細な分析を省きますが)この質問の意味論的前提と語用論的前提を否定しませんし、これらの前提を承認するように聞き手に要求する「前提承認要求」を否定することもありません。

しかし、以上のことは質問の通常の語用論的前提、つまり誠実性と正当性に関して言えることです。例えば、

  ・質問者の声が相手に届くこと

  ・質問者の言葉を相手が理解すること

  ・相手が誠実に答えてくれること

これらもまた質問の語用論的前提だとすると、事情は異なってきます。上で、問いの語用論的前提を、〈質問という発語内行為が成立するための必要条件〉として定義しましたが、この定義によるならば、これらもまた問いの語用論的前提となります。これらは通常の問答では成立しているので、看過されているのです。ここでの返答「いいえ、私には、あなたの言うことが聞こえません」は、「質問者の声が相手に届くこと」という問いの語用論的前提と矛盾しています。つまり、問答論的矛盾の返答は、問いのある語用論的前提と矛盾することになります。

問答論的矛盾を惹き起こす返答が否定している語用論的前提は、問答が成立するための超越論的条件となるでしょう。それを次に考察します。