02: 出来事としての人生の意味 (20201126)

 [カテゴリー:哲学的人生論(問答推論主義から)]

ある人の人生がその行為の全体であるとしても、他人から見ればその行為の全体は、一連の出来事に過ぎない。それゆえに、人の人生を一連の出来事として捉えることができる。このとき、人生の意味は、出来事の意味の一種である。

<ある出来事の意味とは、その出来事の記述を結論とする上流推論とその出来事の記述を前提とする下流推論の全てである>と言えるのではないだろうか。<人生を記述する命題を結論とする上流推論とその命題を前提とする下流推論の全体が、その人生の意味である>。簡単に言ってしまえば、<私の人生の意味は、私が誰からどのような影響を受けて行為したのか、私の行為が、誰にどのような影響を与えたのか>ということに尽きる。

もしある行為に道徳的な価値があるとすると、それはその行為に至るプロセスとその行為から帰結する出来事に道徳的な価値があるということになるだろう。

<行為にいたるプロセスに道徳的価値があれば、その行為から何が帰結するかは問題ではない>という立場を、「上流推論主義倫理」と呼ぶことにしよう。心情倫理は、この一種である。心情倫理は、行為を決定する心的プロセスに道徳的価値があれば、行為は道徳的価値をもつことになり、その行為から何が帰結するかは問題ではない、と考える(例えば、カント)。

この逆の立場<行為の帰結に意義があれば、その行為に至るプロセスは問題ではない>という立場を「下流推論主義倫理」と呼ぶことにしよう。帰結主義は、この一種である(例えば功利主義)。

ある行為についての、上流推論主義倫理の評価と下流推論主義倫理の評価が対立するとしても、そこには矛盾はない。それは行為の別の側面に対する評価の違いだからである。では、この二つの評価が食い違う時、どのように調停すればよいだろうか?その場合には、下流推論主義倫理を優先させるべきである。何故なら、上流推論は行為を答えとする問いに答える過程であるが、下流推論は、その問いを問うより上位の目的ないしより上位の問いに答えるための推論だからである。

 行為の上流推論の前提には、状況判断や欲求や意志の弱さや慣習なども含まれるかもしれない。したがって、上流推論主義倫理が、カント的な自律の道徳になるとは限らない。カントのように意志決定の自律と他律を峻別できるかどうかは検討が必要である。なぜなら、意志決定は実践的推論によって行われ、その大前提に定言命法が用いられるとしても、小前提には経験的な命題が必要であろうし、また定言命法の理解についても複数の解釈がありうるだろうから、そのようなことを考慮するならば、自律と他律を区別することは困難であるかもしれないからである。

投稿者:

irieyukio

問答の哲学研究、ドイツ観念論研究、を専門にしています。 2019年3月に大阪大学を定年退職し、現在は名誉教授です。 香川県丸亀市生まれ、奈良市在住。

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