[カテゴリー:日々是哲学]
(以下は2020年11月19日「世界哲学の日」記念討論会での発表原稿の一部抜粋です。当日の発表原稿の全体はこちらにあります
以下では、クワインの論文 ‘Epistemology Naturalized’, in Ontological Relativity and Other Essays, 1969「自然化された認識論」(伊藤春樹訳、『現代思想』1988年7月号)を参照しています。)
――――以下抜粋
・論理実証主義(カルナップ)の認識論は、科学を基礎づけようとするものでした。しかし、それを、論理学と集合論と観察文から基礎づけられないことが明らかになりました。(全称文や反事実的条件文を証明できません)。
・そこで、認識論は、科学的言明の真理性ではなく、その意味を、論理学と集合論と観察文によって説明すること(「合理的再構成」(カルナップ))を目指すようになりました。しかし、理論的用語の意味をそれらでは定義できないことが明らかになったので、この試みも挫折しました。(「水溶性」を定義できません)。
・そこで、クワインは認識論を心理学やその他の科学に置き換えることを提案します。
「感覚受容器における刺激が、世界の描像を獲得する際にだれもが最終的に受け入れざるを得ない証拠のすべてである。ならば、この世界像が実際どのように構成されるのか、それをみてみようとなぜしないのか。どうして心理学で満足できないのか。」(第19段落)
しかし、「心理学やその他の経験科学」で、科学の基礎づけを目指すとすれば、循環論法になります。
「認識論の課題を心理学にゆずり渡してしまうのは、最初のころは循環論法だとして許されなかった。経験科学の基礎の確実性を示すところに認識論者の目標があるとするならば、その証明にあたって心理学やその他の経験科学を援用すれば、彼は目的に背くことになる。」(第19段落)
しかし、これに続けて彼は次のように言います。
「しかしながら、循環に対するそのような後ろめたさは、科学を観察から演繹しようという夢をひとたび放棄するならば大して意味がない。」(第19段落)
認識論が科学の基礎づけをあきらめて、科学の「合理的再構成」を意図しているのであるから、心理学によって科学の「合理的再構成」を目指すことにしても、循環論証にはならないというわけです。クワインの「認識論の自然化」は、認識論では科学の基礎づけができないので、「心理学」でそれに取組もう、ということではありません。
「われわれが躍起になっているのはただ観察と科学との結びつきを理解したいがためであるとすれば、利用できる情報はどんなものでも利用するのが分別というものだろう」(第19段落)
この状況をクワインはしばしば「ノイラートの船」に例えます(「経験論の2つのドグマ」「自然化された認識論」「経験論の5つの里程標」)。これは、ドックに入らないで航海しながら修理するという船ですが、この比喩に次の3つを付け加えたいとおもいます。
・ノイラートの船は、一人乗りではない。
・ノイラートの船は、底割れしない。
・ノイラートの船は、一艘とは限らなない。
――――――――― 以上
お正月にこの個所を読み直していて、一部訂正したくなりましたので、次回それを説明します。