26 情動と感情  (20210119)

[カテゴリー:人はなぜ問うのか?]

 前回の発言の後、ダマシオの「感情」についての説明を理解しようとしてきましたが、彼の議論は大変わかりにくく、すこしお手上げ状態です。(なお、訳者の田中三彦氏が、ダマシオのemotion を「情動」、 feelingを「感情」と訳しているので、この訳語を踏襲しますが、これらは、ダマシオが専門用語として導入しているものなので、日本語の「情動」や「感情」の通常の意味とも、また英語のemotionとfeelingの通常の意味ともズレることをお断りしておきます。)

 前述のように、ダマシオは、「情動」を「遺伝的に決定した化学的、神経的反応」ととらえていました。これに対して、「感情」とは「情動を感じる」こと、あるいは情動についての「心的イメージ」であると言われます。

 ダマシオは、単細胞生物の動物を含めて、全ての動物が情動を持つと考えていますが、しかし、感情については、情動を持つすべての動物が、情動の感情を持つとは考えていないと思います。進化のあるレベルで感情が発生したと考えていると思われる。ネコやイヌなどのペットは感情を持つと述べている(ダマシオ、前掲訳96)ので、少なくとも哺乳類は感情を持つのだと思われます。しかし、魚などの脊椎動物も感情を持つと考えているかどうかはわかりません。

 情動についての心的イメージ(感情)が生じる時、感情は情動についての何らかの表象である。その感情に対応する脳のニューロン・パターンと心的イメージの関係について、ダマシオは、二元論を拒否している。

「イメージは、ニューラル・パターンから生じる。しかし、イメージがニューラル・パターンから「どのようにして」出現するかに関しては謎がある。一つのニューラル・パターンがどうやって一つのイメージに「なる」のかは、いまだに神経生物学が解決できていない問題だ。」420

「イメージはニューラル・パターンそのものではなく、ニューラル・パターンに「依存し」そこから「生じる」もの、と言うとき、私は一方にニューラル・パターン、他方に非物質的思考という、不用な二元論を述べ立てているわけではない。」420

ダマシオは、「イメージ」もまた「生物学的実在物」であり、しかもそれはニューラル・パターンに後続して生じるものだと述べている。

「私が明確にしておきたいのは、ニューラル・パターンは、私がイメージと呼んでいる生物学的実在物の前兆であるということ。」421

しかし、ここでいう「生物学的実在物」がニューラル・パターンでないとしたら、それはいったい何だろうか。感情が、心的イメージであり、かつ生物学的実在であるとしたら、それはどういうことになるのだろうか。

 ちなみに、ダマシオは、この感情は、また無意識的であり、この感情が認識されたときに、意識が生じると考える。彼は、この意識を、中核意識と拡張意識に分ける。これらは、おそくらく次のような対応関係を持っている。

  感情――原自己

  中核意識――中核自己

  拡張意識――自伝的自己

ダマシオは、『意識と自己』が取り組む二つの問題を次のように説明している。

「第一の問題は、ぴったりした言葉がないからわれわれがふつう「対象のイメージ」と呼ぶ心的パターンを、人間の有機体の内側にある脳がどのようにして生み出しているのかを理解する問題である。」(前掲訳18

「意識の第二の問題、それは…、脳がどのように「認識のさなかの自己の感覚」をも産み出すのかという問題である」(前掲訳19

「対象のイメージ」や「認識のさなかの自己の感覚」を扱う時、これらの心的現象に関する諸概念(感情、意識、自己、表象、イメージ、など)と生物学ないし脳科学や神経科学の諸概念の関係が私には曖昧であるように思われる。その曖昧さの理由の一つは、心的現象に関する概念の曖昧さにある。

 ダマシオは、次のような方法論を述べる。

「以下の三つの関係を確立することは可能だ。

(1)いくつかの外的発現。たとえば、覚醒状態、背景的情動、注意、特定の行動。

(2)そうした行動を有する人間の、それらの行動に対する内的発現。これはその人間の報告による。

(3)観察者である我々が被観察者と同等の状況に置かれたとき、我われが自分自身の中で検証できる内的発現。

 我々はこの三つの関係によって、外的な行動にもとづいて人間の私的な状態を合理的に推測することができる。」(前掲訳115)

たとえば、ノエの知覚のエナクティヴィズムでも、ギブソンのアフォーダンス論でも、「視覚像」や「知覚像」を認めることに慎重であり、たとえそれらを認めても、認識におけるその重要性に関しては懐疑的である。また「意識」(consciousness)という語は、ロックがconsciousから作った新しい語であり、それ以前には人々はconsciousnessという語で心を理解してはいなかった。「自己」という語もまた多義的であり、時代や社会によって異なる意味をもつ語である。そう考える時、上記の方法論の(2)の部分は、心についての一人称の報告文として明確なものになりうるとしても、その報告文の意味内容については、曖昧なままである。それゆえに、上記のダマシオの方法論は、少し素朴すぎるように思われる。

 さて、どうしたものだろうか。