ダマシオを少し離れて、意識ないしイメージの発生について考えてみよう。
[カテゴリー:人はなぜ問うのか?]
まず、問いの意識の答えの意識について考えてみよう。
#問いを意識するとき
私たちは、意識せずに何かを問うていることがある。例えば、自分のコーヒーカップをつかおうとするとき、「私のコーヒーカップはどこかな?」と問いながら、食器棚を探す。あるいは、「コーヒーカップは机の上にあったかな?」と問いながら、机の上を探す。このときに、コーヒーカップがすぐに見つかれば、私は、その問いを問うたことを意識することはなく、またその答えも意識しないということがあるだろう。
#では、問いを意識するのはどのような場合だろうか。
①問いを意識する一つの場合は、問いに答えることができないときである。問いに答えることができないとき、問うていることを意識する。これは、<行為がうまくいかないときに、行為していることを意識する>という一般的な事柄の、特殊ケースである。
②問いを意識するもう一つの場合は、ある問いに答えようとして答えることができないので、それの答えを見つけるために、別の問いを立てるときである。このときこの「別の問い」を私たちは意識する。
#では、問いの答えを意識するのは、どのような場合だろうか。
①意識的に立てた問いの答えを得たときには、私たちは、その答えを常に意識している。
②無意識的に立てた問いの答えを得たときには、大抵は、それを意識しない。
③しかし、その答えが、他の意識している命題と衝突するとき、私たちは、その答えを意識するだろう。