28 知覚イメージの発生について (20210121)

[カテゴリー:人はなぜ問うのか?]

(今回は、人間と動物に共通の話です。)

#知覚することと知覚像(知覚イメージ)を持つことの区別

 眼を持つ動物は、空間とその中にある対象の形と表面の色や質感を知覚するだろう。また空間の中での身体の移動に合わせた対象の見えの変化を記憶し予測しているだろう。つまり、既に見えなくなった側面を記憶し、これから見えるであろう側面を予測しているだろう。その記憶と予測がなければ、動物は適切に行動できないからである。

 しかし、動物が、知覚することと、知覚像(知覚イメージ)を持つことは別のことであろう。動物が、対象について知覚し、それを記憶し、それを予測しているとしても、そのことを意識しているとは限らないし、それらの知覚を像として意識し、像として記憶し、像として予測しているとは限らない。動物が知覚することは、感覚器官をもつことを確認することで知ることができるが、知覚像を持つことは直接的に知ることができない。

 たとえば、魚を取るための定置網は、垣網に導かれて囲網の中に入った魚が外にでられず、さらに箱網の中に入るとますます出られなくなるという仕組みです。

  (参照:https://trevally.jp/2018/04/15/machibusegatagyohoutetiami/)

魚は、網を知覚してそれにぶつからないように泳ぐことができます。しかし、網全体のイメージを描くことができないので、そこから抜けられないのです。つまり、魚には視覚はあっても、視覚イメージはないということになります。もし魚が上記の定置網の配置全体のイメージを持っているならば、魚は網が開いているところから逃げていくはずですが、そうしないということは、定置網の配置全体のイメージを持っていないということです。魚は、対象を知覚しても、その知覚像を持たない

#知覚イメージを持つことの有用性

 もし動物が進化の過程で知覚像(知覚イメージ)を持つことになったとすれば、①そのようなイメージを持つことは生存に有利であること、あるいは、②そのようなイメージを持たないことで危険に直面するということ、によって知覚イメージを持つことになったのだろう。

 幼児の場合を例に挙げると、次のように言えるだろう。幼稚園児が、ひとりで幼稚園に行くことはできるが、家から幼稚園までの地図を描くことができないとき、次のような危険に直面するする可能性がある。幼稚園児が何かに気を取られて、道を間違えたときに、迷子になってしまうという危険がある(②の例)。逆に、地図をかければ、幼稚園児は、道に迷っても、家が大体どの方向にあるかがわかり、家に帰れる可能性が高くなるというメリットがある(①の例)。

 同様のことは、動物でもいえるだろう。縄張りを持つ動物は、縄張りの空間についてのイメージを持っているのではないだろうか。

 次に、知覚を意識すること、知覚イメージを持つことが、どのようにして生じるのかを考えてみたい。