22 クワインは「認識論の自然化」によって何をしようとしたのか?(2)(20210108)

[カテゴリー:日々是哲学]

前回の引用部分で訂正が必要なのは、次の箇所です。

「認識論が科学の基礎づけをあきらめて、科学の「合理的再構成」を意図しているのであるから、心理学によって科学の「合理的再構成」を目指すことにしても、循環論証にはならないというわけです。クワインの「認識論の自然化」は、認識論では科学の基礎づけができないので、「心理学」でそれに取組もう、ということではありません。」

この中に「科学の「合理的再構成」」という表現があるのですが、その意味(使用法)が曖昧でした。さらに「心理学によって科学の「合理的再構成」を目指す」という箇所が間違いでした。

 カルナップの「合理的再構成」は、当初は、科学的言明を「観察用語と論理-数学的な補助手段を用いて翻訳すること」を意味していたと思われます。しかし、観察用語と論理学数学の用語だけで、科学的言明の一意的な翻訳を与えることはできないことが明らかになりました。

 例えば「水溶性」という科学用語を、観察用語と論理学数学の用語だけで定義することができないのです。ただし、「水溶性」について次のように説明することはできます。

Aを水に入れる⊃(Aは水に溶ける⊃Aは水溶性である)

これは、ベンサムに始まるとされる文脈的定義とは異なります。文脈的定義は、或る用語を含む文に対して、それと同値な文を与えることです。例えば、

  AはBより硬い≡AとBをこすり合わせれば、Bに傷がつくが、Aには傷がつかない。

このような同値文があれば、私たちは「より硬い」という語を消去することができます。しかし、「水溶性については、そのような同値文を示すことができないので、文脈的定義で消去できないのです。そこでクワインは次のように述べています。

「カルナップの緩やかな還元形式は一般には等価な文を与えない。それが与えるのは含意文である。それは新しい用語を部分的にではあるにしろ説明する。すなわち、当の用語を含んだ文によって含意されるいくつかの文を特定し、その用語を含んだ文を含意する別の文を特定することによって、その用語を説明するのだ。」(第20段落)

この説明方法は、ブランダムの推論的意味論に非常に近い考えになるように思います。例えば、新しい科学用語をXとし、Xを含む文をpとするとき、pを結論とする上流推論とpを前提とする下流推論を特定することによって、その用語Xを説明するということです。

 このような緩やかな形式による科学的言明の説明も、おそらく緩やかな意味で、「合理的再構成」であると、カルナップとクワインによって考えられているようです(参照、「定義するは消去するなりである。しかしカルナップの還元形式に基づく合理的再構成にはこのようなことはまったく思いもよらない。」(第23段落) )。

「唯一我々の求めているものが、翻訳とまではいかないにしろ顕示的な手段を用いて科学を経験に結びつけるような再構成であるならば、心理学で満足するほうがはるかに理にかなってみえよう。」(第24段落)

「あらゆる文を観察用語と論理-数学用語からなる文に等しいと見なせるような認識論的還元が不可能である」「この種の認識論的還元の不可能性は、心理学に対して合理的再構成が持っているとおもわれていた優位性を最終的に打ち砕いた。」(第32段落)

以上を踏まえて、認識論的還元を「強い合理的再構成」とよび、緩やかな還元形式による科学的言明の説明を「弱い合理的再構成」と呼ぶことにしたいとおもいます。そうすると、カルナップは、「強い合理的再構成」を放棄し、「弱い合理的再構成」を追求していたと言えるでしょう。

 それに対して、クワインは、「弱い合理的再構成」は可能であるが、それよりも心理学による科学論の探究のほうが有効である、と考えていたと思われます。つまり、クワインは心理学によって科学の心理学によって科学の「合理的再構成」を目指したのではありません。「心理学によって科学の「合理的再構成」を目指す」という箇所が間違いでした。

 では、「クワインは「認識論の自然化」によって何をしようとしたのか?」これを次に考えたいと思います。

21 クワインは「認識論の自然化」によって何をしようとしたのか?(20210106)

[カテゴリー:日々是哲学]

(以下は2020年11月19日「世界哲学の日」記念討論会での発表原稿の一部抜粋です。当日の発表原稿の全体はこちらにあります

(https://irieyukio.net/ronbunlist/presentations/20201123%E3%82%B7%E3%82%A7%E3%82%A2%E3%80%8C%E4%B8%96%E7%95%8C%E5%93%B2%E5%AD%A6%E3%81%AE%E6%97%A5%E8%A8%98%E5%BF%B5%E8%A8%8E%E8%AB%96%E4%BC%9A%E3%80%8D.pdf)。

 以下では、クワインの論文 ‘Epistemology Naturalized’, in Ontological Relativity and Other Essays, 1969「自然化された認識論」(伊藤春樹訳、『現代思想』1988年7月号)を参照しています。)

――――以下抜粋

・論理実証主義(カルナップ)の認識論は、科学を基礎づけようとするものでした。しかし、それを、論理学と集合論と観察文から基礎づけられないことが明らかになりました。(全称文や反事実的条件文を証明できません)。

・そこで、認識論は、科学的言明の真理性ではなく、その意味を、論理学と集合論と観察文によって説明すること(「合理的再構成」(カルナップ))を目指すようになりました。しかし、理論的用語の意味をそれらでは定義できないことが明らかになったので、この試みも挫折しました。(「水溶性」を定義できません)。

・そこで、クワインは認識論を心理学やその他の科学に置き換えることを提案します。

「感覚受容器における刺激が、世界の描像を獲得する際にだれもが最終的に受け入れざるを得ない証拠のすべてである。ならば、この世界像が実際どのように構成されるのか、それをみてみようとなぜしないのか。どうして心理学で満足できないのか。」(第19段落)

しかし、「心理学やその他の経験科学」で、科学の基礎づけを目指すとすれば、循環論法になります。

「認識論の課題を心理学にゆずり渡してしまうのは、最初のころは循環論法だとして許されなかった。経験科学の基礎の確実性を示すところに認識論者の目標があるとするならば、その証明にあたって心理学やその他の経験科学を援用すれば、彼は目的に背くことになる。」(第19段落)

しかし、これに続けて彼は次のように言います。

「しかしながら、循環に対するそのような後ろめたさは、科学を観察から演繹しようという夢をひとたび放棄するならば大して意味がない。」(第19段落)

認識論が科学の基礎づけをあきらめて、科学の「合理的再構成」を意図しているのであるから、心理学によって科学の「合理的再構成」を目指すことにしても、循環論証にはならないというわけです。クワインの「認識論の自然化」は、認識論では科学の基礎づけができないので、「心理学」でそれに取組もう、ということではありません。

「われわれが躍起になっているのはただ観察と科学との結びつきを理解したいがためであるとすれば、利用できる情報はどんなものでも利用するのが分別というものだろう」(第19段落)

この状況をクワインはしばしば「ノイラートの船」に例えます(「経験論の2つのドグマ」「自然化された認識論」「経験論の5つの里程標」)。これは、ドックに入らないで航海しながら修理するという船ですが、この比喩に次の3つを付け加えたいとおもいます。

・ノイラートの船は、一人乗りではない。

・ノイラートの船は、底割れしない。

・ノイラートの船は、一艘とは限らなない。

――――――――― 以上

お正月にこの個所を読み直していて、一部訂正したくなりましたので、次回それを説明します。

20 問答の観点から哲学を改造すること(20210103)

[カテゴリー:日々是哲学]

明けましておめでとうございます。

今年も問答の考察を進めたいと思います。よろしくお付き合いください。

<問答の観点から哲学を改造すること>、これが私の目標です。

(問答の重要性が分かれば、おのずから哲学のあり方は変わるだろうと予測しています。)

現在次のようなことを考えています、あるいは、考えたいと考えています。

・哲学は、普通よりもより深くより広く問うことである。哲学では、通常は問いの対象の方に関心が向かっているが、哲学研究は、問答で出来ている。

・哲学研究の対象(世界)もまた問答で出来ている。

 言語、認識、行為、主体、社会などが問答で構成されていることを示すこと。

・言語について言えば

 語、文法、言語行為。

 構文論的諸概念、意味論的諸概念、語用論的諸概念が、問答関係によって成立すること

・論理学について、

 論理学的諸概念、論理法則が、問答関係によって成立すること

・認識論について

 信念、知識、主張は、問いに対する答えであること

 認識を問いへの答えとみなすこと、真理を問いに対する答えの関係とみなすこと。

・行為は問いに対する答えであること

 行為主体は、問いで構成されていること

・社会制度は、社会問題への答えであること

 法は、関数である

 法は、社会問題への答えである

 権利は、問答の権利である

 お金は、負債証明書である。

 負債があるとは、返済義務があるということである

・歴史は物語である

 物語は、物語的問いへの答えである

・人生の意味について

人生の意味は、人生の上流推論と下流推論である

22 アフォーダンスの選択(抽出)  (20210101)

[カテゴリー:人はなぜ問うのか?]

(明けましておめでとうございます。今年も、問答の考察に取組んでゆきたいと思いますので、よろしくお付き合いください。)

 レヴィンやコフカは、事物の価値や効用は、直接に知覚されると考えていたが、しかしそれらが物理的な実在性を持つのではなく、「現象的な「場」において、事物と自我との間に何らかの力が働くためであると考えていた。つまり、要求や動機が働いていると考えていた。(参照、エドワード・リーチ、レベッカ・ジョーンズ編『直接知覚論の根拠』境淳史、河野哲也訳、勁草書房、350f)

 しかし、ギブソンはそれら事物の価値や効用は、直接に知覚されるだけでなく、客観的に実在すると考えていた。つまり、「事物のアフォーダンスは、観察者の要求の変化に関わりなく、変化しないと考えられている。例えば、ある物質がある動物にとって食べられるか否かは、その動物が、空腹か否かとは無関係である。ある動物がある面の上を歩けるという事実は、(どの動物の移動能力やその動物の行為システムと関連してはいるが、)実際にその動物がその上を歩くか否かに関わりなく存在する。」(前掲訳、350)。

 このことは「負のアフォーダンス」にも成り立つ。「対象・場所・動物が観察者を傷つける力、すなわち、それらの負のアフォーダンス《negative affordance》も、観察者がそれらを恐れるか否か、嫌悪するかいないか、回避するか否かと言ったこととは無関係である。」(前掲訳、350)

 問題は、アフォーダンスが一つの事物について無数にあるということである。なぜそれが問題になるかというと、アフォーダンスは無数にあるが、そこにいる動物に知覚されるアフォーダンスはそれらの一つにすぎない(場合によっては複数のアフォーダンスが同時に知覚されるかもしれないが、全てのアフォーダンスが知覚されるのではない)ということである。そうすると、そこでのアフォーダンスの知覚(選択、抽出)はどのように行われるのか、を説明する必要が生じる。

 これを説明するのは、一つには、動物の環境の中での位置、動物の内的要因、などであろう。これらによって、知覚されるアフォーダンスは限定されるだろう。ギブソンは「要求は、アフォーダンスの知覚を制御し(選択的注意)、行動を開始させる」(前掲訳、350)と述べているが、この「要求」は、動物の内的要因の一種であろう。

 ギブソンは、ゲシュタルト心理学が、心理と物理の二元論(前掲書、349)を前提していることを批判するのだが、アフォーダンスの中のどれを知覚するのか(選択するのか、抽出するのか)ということを説明しようとすると、動物の内的要因を考慮する必要が生じ、探索行動を考慮する必要が生じるだろう。そうすると、アフォーダンスの知覚の説明は、ゲシュタルトの知覚の説明とあまり違わないものになるのではないだろうか。

 ゲシュタルトの知覚も、アフォーダンスの知覚も、動物の探索行動によって規定されている、と言えそうである。しかし、今の私にはこれ以上の解明ができないので、一旦動物の探索行動の考察を中断し、人間の問いに考察に向かいたい。

 (ただし、次にこの問題に戻ってくるときのために、もう一つの難題をここに書き留めておきたい。それは次のようなことである。無脊椎動物が、方向性を持つ刺激に対して走性反応をするとき、その行動の全体は、動物が探索しているように見える(たとえば、餌を探索しているようにみえる)ものであっても、その行動は遺伝的に決定した行動であって、その動物が個体として探索しているということは、そう見えるというだけの<見かけ上の探索>である。このとき、走性を引き起こする「方向性を持った刺激」はゲシュタルト構造を持つ知覚だと言えるだろう。そして、対象がどのようなゲシュタルトで知覚されるかは、動物がどのような探索行動をしているかによって規定されている、と想定してきた。しかし、探索が<見かけ上の探索>ならば、ゲシュタルトの方も観察者にそう見えるだけの<見かけ上のゲシュタルト>であることになりそうである。しかし、もしそうだとすると、観察者からみての<見かけ上のゲシュタルト>をもつ刺激に、動物が走性反応をするということになってしまう。これをどう説明したらよいのだろうか? もし知覚と探索(問い)行動の対応関係を主張しようとするならば、この問題に答える必要がのこる。)

 次回からは、人間の問いの起源に取り組みたいと思います。