[カテゴリー:人はなぜ問うのか?]
情動の社会性を説明する前に、前回についての補足コメント:前回「情動概念」は、何らかの目的を持つ合目的的概念であると述べた。その理由は、概念は感覚刺激の分類によって構成され、その分類は類似性に基づくが、その類似性は発見されるものではなく、作られることによって可能になるのであり、ある類似性を作ることは、何からの目的をために行われるということであった。ところで、その場合の目的として考えられるのは、何よりも生物としての自己保存ないし生存の維持であろう。そうだとすれは、この分類は、「生存のために何に注意する必要があるだろうか?」と表現できるような探索の結果として成立することになるだろう。つまり、情動概念が合目的的概念であるとき、それは探索によって成立するということになる。<情動ないし情動概念は、探索-発見、ないし問-答によって成立する>ということになる。
バレットによれば、「社会的現実」とは、次のように構成されるものである。
「何かを作り、それに名前を与え、概念を作り出す。その概念を他者に教え、その人がそれに同意する限り、現実の何かを作り出したことになる。」(バレット、前掲訳225)
バレットによれば、このようにして作られる社会的現実の典型例は、「お金」であるが、「情動」もまた社会的現実であるという。
「情動は、社会的現実の成立に必要とされる人間の二つの能力を通じて、私たちにとって現実のものと化す。」
その二つの能力とは、「集団的志向性」と「言語」である。
集団的志向性が必要なのは、「花」「現金」「幸福」などの概念が存在することに同意する一群の人々が必要だからである。「この共有された知識は「集合的志向性」と呼ばれる。」(前掲訳226)
「社会的志向性」や「共有知」は、もっと詳しいい説明が必要な概念であるが、バレットは詳しい説明はしていない。
「言語」の必要性については、彼女は次のように説明している。
バレットは、まず「情動概念がなくても情動は存在しうる」という考えに反対する。自分の情動を経験したり、他者の情動を知覚したりするためには、情動概念が必要とされる(cf. 前掲訳236)。
「「怖れ」が概念がなければ、おそれを経験することはできない。また、悲しみの概念がなければ、他者の悲しみを知覚することはできない。」前掲訳236
次に言葉がなければ成立しない情動概念もあるという。たとえば「ポテチ・ロス」である。「ポテトチップスの袋に手を突っ込み、すでに空になっているときに気づいたときの、「落胆」「罪悪感」「くふく」などの感覚を「「ポテチ・ロス」と名付けて人々に教えれば、それは「幸福」や「悲しみ」と同様に現実の情動感覚になる。」前掲訳235
また、日本語「ありがた迷惑」前掲訳245もそうである。これらはことばがなければ成立しないだろう。
また、仮に言葉がなくても成立する情動概念であるとしても、それを他者と共有するには、言葉葉で表現することが必要である。
最後に、「第七章、社会的現実としての情動」の終わりに構成主義的情動理論についてのよくまとまった簡潔な説明があるので、それを引用しておきたい。
「構成主義的情動理論は、顔、身体、脳に一貫した生物学的指標を持たずに、どのように情動を経験したり知覚したりできるのかを説明する。脳はつねに身体内外から受け取る感覚入力を予測し、シミュレートしている。だからそれが何を意味し、それに対して何をすればよいかを理解できるのだ。予測は皮質を伝わり、内受容ネットワークの身体予算管理領域から一次感覚皮質へと流れ、脳全体に分散されたシミュレーション(そのそれぞれが概念のインスタンスである)を生む。そして目下の状況にもっとも近似するシミュレーションが勝ち、それが経験になる。また勝利したシミュレーションが情動概念のインスタンスであった場合、この経験は情動経験になる。これら全過程がコントロールネットワークの支援のもとで生じ、身体予算を調節して生存と健康を維持する。その過程で、無事に生き残って自己の遺伝子を次世代に伝えられるよう、周囲の人々の身体予算に影響を与える。かくして、脳と身体によって社会的現実が生み出され、情動が現実のものになるのだ。」前掲訳252