[カテゴリー:哲学的人生論(問答推論主義から)]
前回から気になっていた「優生思想」の何処が間違いなのかを考えてみました(もちろん、以下が唯一の批判ではなく、他にも批判の仕方があるだろうと思います。)
とりあえず、「優生思想」を次のように理解します(もし間違っていたら、ご指摘ください。)
<現代の「優生思想」は、ネオダーウィニズムを前提する。ネオダーウィニズムは、人間を含む動物の遺伝的な性質は、突然変異と自然選択によってより生存に有用なものに置き換わっていくと考える。現代の「優生思想」は、この自然選択が、社会の中でうまく働かない場合があると考え、そのよう場合に、自然選択に代わって、社会的な選択をするべきだと考える。つまり、より有用な遺伝的性質をもつ個体の子孫を増やし、有用でない遺伝的性質をもつ個体の子孫を減らすように、社会的な選択をしようとする。>
「優生思想」は、個人ないし人類が生存する意味をどのように考えているのでしょうか。自然界における動物は、生存競争に勝ち、生き残ることを目標にしているかもしれません。人類は、自然界での他の生物との生存競争には既に勝っています。したがって、自然界での生存競争のために、社会的選択を持ち込む必要はありません。
「優生思想」は、ある特定集団が、人間社会で、他の集団との生存競争に勝ち抜くために、社会的選択を行うことをすすめるのでしょうか。それとも、そのような社会的生存競争によって、人類をより優れたものにすることを目標としているのでしょうか。しかし、どのような遺伝的性質が、社会的生存競争に有利であるかは、どのような社会であるかに依存します。それゆえに、そのような仕方で社会的生存競争を繰り返すことによって、人類がより優れたものになってゆく保証はありません。ジャンケンのように、AはBより有利で、BはCより有利だとしても、AがCより有利だとは限らないからです。
個人や集団の存在意味は何でしょうか。その答えが何であれ、それが個人間や集団間の生存競争に勝つことである、ということにはならないでしょう。なぜならそれは、あまりにも社会の偶然的な状況に依存しすぎる目標だからです。コンテストに優勝したり、起業に成功したりすることは、素晴らしいことですが、しかしそれがその人の生きる意味だということにはならないでしょう。それらは、偶然的なことであり、その人の生きる意味がそのような偶然的な事柄によって決まるとは考えられないからです。