[カテゴリー:問答の観点からの認識]
前回「知覚(原-概念)は、知覚報告(命題)を正当化できます。しかし、逆に、知覚報告を含むどのような命題も、知覚(原-概念)を正当化することはできない。そもそも、知覚を正当化するということは意味をなさない。」と述べました。まずこれに補足したいと思います。
知覚(原-概念)は、知覚報告を正当化します。ただしこれは、通常の証明、つまりある命題の真理性から他の命題の真理性を証明することとは、次の二点で異なります。
第一に、知覚には構造がありますが、それが原-概念的構造です。この原-概念と概念の関係は、通常の概念同士の関係ではありません。<白い>ものを見ることが、「それは白い」と語ることを正当化します。それは<白いもの>と「白いもの」の定義に基づいています。この正当化は、定義とその記憶に基づいています。(これは、クリプキがアプリオリで偶然的な真理の例として挙げた「メートル原器は1メートルの長さです」が真であるのと同じ意味で、定義により真です。ただし、ここで知覚を知覚報告で表現することは、定義に加えて、定義の記憶に基づいています。)
第二に、知覚は、原概念ですが、正当化された原-概念ではないということです。知覚は、正当化されません。後で錯覚だと分かる時には、知覚は訂正され、否定されますが、錯覚や幻覚だと分からないとき、その知覚が正当化されているということではありません。なぜなら、知覚は、知覚報告を正当化するが、知覚は、知覚報告によって正当化されることないし、また他の知覚によって正当化されることもないからです。
ただし、知覚の報告が、他の知覚の報告によって修正されることがあります。これは、知覚が後から錯覚や幻覚であると分かる場合です。
#原概念は暗黙的な概念である。
世界は、多様な仕方で知覚されることが可能であり、そこでは多様な原-概念が可能である。世界が現実にある仕方で知覚されるとき、原-概念が成立する。知覚において、態度や行為をアフォードする(促す)のは、対象や媒質や環境ですが、それらはある主体に対してアフォードするのです。つまり、知覚やアフォーダンスは、対象などと主体との関係として成立するのです。特定の対象と主体とのあいだにも、多様なアフォーダンスが可能ですが、ある対象は、様々な主体との関係において、様々なアフォーダンスを持ちえます。
その中である対象がある主体との間に、ある時点であるアフォーダンス(原-概念)が生じているとすれば、それを決定しているのには多くの要因があります。主体の側でいえば、その主な要因は、主体の探索だと言えるでしょう(例えば、ふいに物音がしたときに、動物が何だろうと注意することは、「探索反射」とよばれるようです)。
このような知覚の記述が知覚報告です。知覚報告は、知覚を変化させないとおもわれます。「それは白い」という知覚報告も知覚を変化させないのです。それゆえにその時の知覚は<白さ>の知覚と考えられています。「それはリンゴだ」という知覚報告も、知覚を変化させず、素朴実在論が正しければ、知覚は事実そのものを知覚しているので、そのものなので、それに対応する事実が成立していることになります。そうすると、知覚報告に使用される概念が、知覚ないし事実そのもの中にも暗黙的に存在することになります。したがって、原-概念は、暗黙的な概念だと考えられます。
次のように言えそうです。
<原概念は、暗黙的な概念、あるいは概念化可能な性質であり、それが知覚報告で明示化されるとき、概念になる。原-概念は、動物が世界を知覚するときに成立するものである。アフォーダンスは、言語化すれば「…したい」「…した方がよい」「…できる」「…できない」などの規範的な原概念になる。>
このような説明で問題がないかどうかまだ確信が持てませんが、このような説明のチェックのためにも、次から、知覚報告とその他の経験判断の関係について考えたいと思います。