[カテゴリー:問答の観点からの認識]
知覚報告は、相関質問への答えであり、その相関質問の主語が単数であることが多いことが、知覚報告が単数形になることが多くなる理由だといえるでしょう。
知覚報告が知覚の記述であり、知覚の対象が個物であることが多いからだと言えるかもしれません。
#では、知覚の対象はなぜ個物であることが多いのでしょうか?
知覚は常にゲシュタルトをもちますが、言い換えると、ゲシュタルトが知覚の対象である言えます。ゲシュタルト(形態)は、一つの統一、あるいはまとまりをもつ一つの全体であるので、知覚は、常に一つのまとまりをもつ対象の知覚だと言えます。確かに私たちは大抵の場合、多くのものを同時に知覚しています。しかし、その多くのものは、明確なゲシュタルトを持つものとして知覚されているのではありません。それら多くのものはいわば知覚可能なものとして意識されているのです。たとえば、私が階段を降りる時、一段一段を明確に知覚しているのではありません。私は、なんとなく各段を知覚しているにすぎません。そのため、階段を下りた後で、私にはその一段一段を想起することができません。しかし、知覚報告するときの知覚は、意識的な知覚、明確な知覚、明確なゲシュタルトをもつ知覚です。そのため、知覚報告の主語は単数になることが多いのです。
では、知覚のゲシュタルトは、なぜ一つの統一されたまとまりになるのでしょうか。それは知覚がノエのいう「行為の仕方」であることによるのです。動物の知覚は探索行為と不可分であり、探索行為を導くものだと言えるでしょう。ところで動物や人間などの行為主体は、一度に一つの方向にしか移動できません、つまり基本的に一度に一つの行為しかすることができないのです。その行為の要素となる細かな行為については、同時に複数の行為をしていることがあります。例えば、あるものをつかもうとするとき、そちらに腕を伸ばすと同時に掌を広げて掴む準備をします。しかし、それは、あるものをつかむという一つの行為をすることであり、そのとき同時に、別の物をつかむことはできません。知覚は行為を助けるものであり、行為は一度に一つの行為しかできないので、行為の対象は一つであり、行為を助ける知覚は、一つの対象の状態や運動などを知覚することに向かうのです。
このように知覚は行為と深く結びついているので、探索(行為)と発見(知覚)は不可分です。探索発見は不可分に結合しており、例えば、餌を探索するときに、仮に餌が見つからなくても、何も発見(知覚)が行われないのではなく、探索の結果として(言葉にすれば)「ここに餌はない」という発見(知覚)が成立しているのです。このように探索と発見は常に不可分に結びついています。
これに対して問答は、分離しています。元来は、問答は、他者に質問し、他者がそれに答える。あるいは他者から質問され、それに答える、と言う仕方で発生します。従って、問うことは、答えが得られなくても成立しうるし、答えることは、元来の他者の質問に答えることなので、問うことから相対的に独立して成立します。一人で行う自問自答の問答も、このような対話における問答が内面化されて成立することなので、問答は分離しています(もちろん、問いと答えは、意味論的には結合しています)。
知覚報告の主語は、すでに相関質問の中に登場するはずです。したがって、知覚報告の主語が多くの場合単数になることは、知覚の対象が一つの統一を持つまとまりであるためではありません。むしろ順序は逆なのです。つまり、知覚報告の主語が単数なのは、相関質問の主語が単数であり、一つの個物についての知覚報告を求めているからこそ、その質問に答えるための探求は個物へ向かうのです。
では、この相関質問はどのようにして発生するのでしょうか。それはより上位の問いに答えるためであると思われます。より上位の問いに答えるために、知覚報告が必要であるとき、それを得るための問いとして、ある個物についての問いが設定されるのです。
次に知覚報告が肯定判断になるという特性について、検討したいと思います。