18 知覚のゲシュタルトと発話の焦点の類似性 (20210603)

[カテゴリー:問答の観点からの認識]

(もう一度、人間の「言語的な知覚」について説明します。)

#性質<白い>の定義と語「白い」の定義

オースティンが指摘したように、対象<象>を定義することと語「象」を定義することは不可分であり、どちらか一方だけを先に行うことはできません(『オースティン哲学論文集』坂本百大監訳、勁草書房、「第5章 真理」、191)。それと同様に、性質<白い>の定義と語「白い」の定義も不可分です。「これは白い」という知覚報告が可能であるのは、そこで使用される知覚語の定義を学習しているときであり、そのときには知覚的性質の定義の学習も終わっています。したがって「どれが白いですか?」と問われたとき、その問いを理解しているのならば、語「白い」を理解しており、したがって知覚される対象(「これ」)についても、その知覚的性質<白い>の定義は完了しており、その知覚的性質<白い>を理解しています。

人間の「言語的な知覚」とは、知覚語と同時に定義されている知覚的性質についての知覚です。したがって、私たちが、知覚語を理解している時には、それを用いた知覚報告を行うことが可能になります。

#知覚のゲシュタルトと発話の焦点の類似性

・知覚のゲシュタルトは、発話の焦点と似ています。発話の焦点位置は、相関質問によって決定しますが(参照『問答の言語哲学』第二章)、知覚のゲシュタルトもまた、問いないし探索によって決定するでしょう。有名な老婆と若い女性の反転図形がありますが、それを老婆の絵が並んでいるところにこれをおけば、それは老婆の絵として知覚されるでしょう。若い女性の絵が並んでいるところにおけば、それは若い女性の絵として知覚されるでしょう。このようにゲシュタルトが変化するのは、その絵をみるときに「どんな老婆だろう」とか「どんな若い女性だろうか」という問いかけ(探索)をしながら見ることになるからです。ゲシュタルトの違う知覚は、異なる問い(探索)に対する答えです。

・発話の焦点位置が、より上位の問いに依存するように、知覚のゲシュタルトは、行為のより上位の目的に依存する。知覚は、行為の仕方であり、行為にはより上位の目的があるので、全ての行為は、探索である。知覚のゲシュタルトは行為のより上位の目的に依存する。

・発話の焦点が二重問答関係をもつように、知覚のゲシュタルトも問答と探索発見からなる二重の関係をもつ。知覚のゲシュタルトは、相関する探索によってきていされ、ゲシュタルト知覚からの下流推論は、相関する探索のより上位の問いに答えるプロセスである。

   「どれが白いのか?」→探索→発見(知覚)→「それが白いです」

次回は、動物の非言語的な知覚と人間の「言語的な知覚」とどう関係しているのかを考えたいと思います。

17 知覚と知覚報告と問い (20210602)

[カテゴリー:問答の観点からの認識]

このカテゴリーの01回から03回は、認識についての問答の区別を論じました。04回から16回は、錯覚論証の検討に始まり、脳科学と素朴実在論の結合(これを「結合説」と呼ぶことにします)を提案しました。「結合説」の説明および証明にはまだほど遠いのですが、そのためにも、ここからしばらく知覚と知覚報告について考察したいと思います。

#知覚と知覚報告と問い

日常の最もありふれた認識は、知覚報告です。「これは白い」「これは汚れている」などです。このような知覚報告はどのようにして生じ、それが真であることを保証するものは何でしょうか。

 「これは白い」という知覚報告の真理性を保証するのは、知覚ですが、その知覚はたとえば「どれが白いですか」という問いに答えようとして、注意してみることによって成立します。「どれが白いですか」という問いを受けて、目の前にあるいくつかの対象をみて、それぞれが白いかどうか、に注意します。

 この問いを理解する者は、「白い」を理解しています。「白い」の理解は、この語の意味を学習によります。その学習は、いくつかの対象について、問い「これは白いか」に対する正しい答え「はい」ないし「いいえ」を学習する、という仕方で行われます。この学習に基づいて、新しい対象について「これは白いか」という問いに正しく答えられるようになる時、学習が終了したことになります。

 このようにして「白い」を学習している人が、「どれが白いですか」と問われて、目の前の対象を知覚するとき、それが「白い」と言えるかどうかを自問しながら、その色に、あるいは「白さ」に注目して、知覚します。このときの知覚行為はどのように行われるのでしょうか。ここに次のような問答と探索発見の二重の関係を見つけることできるでしょう。

  「どれが白いのか?」→探索→発見(知覚)→「それが白いです」

対象が白いかどうかに注意して見ることは、探求の一種です。問答は、言語による探求ですが、言語によらない知覚的な探求をとりあえず「探索」と呼びたいと思います。言語をもたない動物も探索を行います。

 ただし、ここでの探索は、対象について「それは白い」と言えるかどうかの弁別であり、そのための知覚です。したがって、この知覚は、言語的な世界の中を動いており、この知覚は、言語的な世界の中での「行為の仕方」(ノエ)であり、言語的な世界の中での「行為のアフォーダンス」(ギブソン)です(これらについては、後述します)。その意味で「言語的な知覚」だと言えるかもしれません。

 ところで、動物の知覚は、非言語的な知覚です。これは人間の「言語的な知覚」とどう関係しているのでしょうか。