19 疑問表現の導入規則と除去規則(20210815)

[カテゴリー:『問答の言語哲学』をめぐって]

前回述べたように、推論は問いを前提します。本書では、問答推論的意味論では、(ブランダムの推論的意味論を拡張する仕方で)、発話の意味を理解するとは、正しい上流問答推論と正しくない上流問答推論を判別でき、正しい下流問答推論と正しくない下流問答推論を判別できることだと説明しました。この推論関係によって表現の意味を明示化できるのは、(ここでもまたブランダムの推論的意味論を拡張する仕方で)、問答推論を行っても他の語彙の意味が変化することはないからだと説明しました。推論をおこなっても他の言語表現の意味を変えないことは、(ブランダムが指摘したように)論理的語彙が保存拡大性をもつことによって説明できます。問答推論によって他の言語表現の意味が変わらないことについては、この論理的語彙に加えて、疑問表現が保存拡大性をもつことを示す必要があります。これについては、『問答の言語哲学』pp. 70-75で疑問詞の導入規則と除去規則とそれらの保存拡大性を説明しました。この説明は、問答推論的意味論や現在考察中の問答推論的認識論にとって重要なものですので、ここでその説明を少しだけ改善して、再説したいと思います。

#疑問詞の導入規則

<疑問文Qに含まれる疑問詞wの導入規則>

p┣ Q

(Qは疑問詞wを含む補足疑問であり、pは平叙文であり、pはQが健全であるための十分条件です。)

具体的には次のようになります。

<「どれ」と「だれ」と「どこ」の導入規則>

 「Fであるものが存在する」┣「どれがFですか?」

 「Fである人が存在する」┣「だれが、Fですか?」

 「pが発生する場所が存在する」┣「pはどこで発生しますか?」

#疑問詞の除去規則

疑問詞を除去する最も重要でありふれた方法は、補足疑問文に答えることです。

<Qに含まれる疑問詞のwの除去規則>

 Q、Γ┣ r

(Qはwを含む補足疑問文であり、Γは平叙文の列であり、rはQの真ある答えです。)

もう少し限定した形式にすると次のようになります。 

 <「どれ」と「だれ」と「どこ」の除去規則>

「どれがFですか?」、Γ┣ 「aはFです」

   「だれが、Fですか?」、Γ┣ 「bは、人間でありかつFである」

「pはどこで発生しますか?」、Γ┣ 「cは場所であり、かつcでpが発生する」

補足疑問文「どれがFですか」の場合、導入規則と除去規則は次です。ある。

   「Fであるものが存在する」┣「どれがFですか?」

「どれがFですか?」、Γ┣ 「aはFです」

この二つの連続適用すると、次の推論になります。

   「Fであるものが存在する」、Γ┣ 「aはFです」

この推論は、補足疑問文がなくても可能な推論です。それゆえに、この決定疑問文は保存拡大性を持ちます。

#決定疑問文の保存拡大性

次に、決定疑問文の使用の保存拡大性を説明します。

「これはリンゴですか」の導入規則は次のようになります。

   「これは果物です」┣「これはリンゴですか?」

「これはリンゴですか?」の除去規則は次のようになります(Γと⊿は平叙文の列)。

   「これはリンゴですか?」、Γ┣「これはリンゴです」 

   「これはリンゴですか?」、⊿┣「これはリンゴではありません」

この二つを連続適用すると、次の推論になります。

   「これは果物です」、Γ┣「これはリンゴです」

あるいは、

   「これは果物です」、⊿┣「これはリンゴではありません」

これらの推論は、決定疑問文がなくても可能な推論です。それゆえに、この決定疑問文は保存拡大性を持ちます。

より一般的に説明すると次のようになります。

?pの導入期測として、

  r┣?p  (rは?pが正しい答えをもつための充分条件)

?pの除去規則として、

  ?p、Γ┣p

  ?p、⊿┣¬p

を仮定します。このとき、導入規則と除去規則を連続適用すると、次の推論になります。

   r、Γ┣p

   r、⊿┣¬p

これらの推論は、決定疑問文がなくても可能な推論です。それゆえに、この決定疑問文は保存拡大性を持ちます。

以上によって、問答推論によって論理的語彙と疑問詞と疑問文形式によって、他の言語表現の意味が変わるとはなく、それゆえに他の言語表現の意味を明示化できることを説明できます。また、問答推論よって事実を記述する言語表現の意味が変化しないからこそ、問答推論によって事実を解明できることを説明できます。

18 推論は問いを必要とする (20210814)

[カテゴリー:『問答の言語哲学』をめぐって]

#推論は問いを必要とする。

『問答の言語哲学』第一章の主張は、推論的意味論を問答推論的意味論へ展開することです。その根拠となるのは、「推論は問いを必要とする」という主張です。本書では、これを理論的推論と実践的推論の事例をあげて説明しました。しかし、一般的な論理的な証明は行いませんでした。その理由は、事例からその主張の正しさは明白になると考えたからです。しかし、やはり論理的な一般駅な証明が必要だと考えます。

 「推論は問いを必要とする」の証明は、次のような推論になるでしょう。

①ある所与の諸命題を前提とするとき、それらから論理的に必然的に帰結する命題、言い換えるとそれらの前提がすべて真であるときに必然的に真となる命題は、常に複数ある。

②複数の命題の中から一つを結論として選択することで推論が成立する。

③推論における結論の選択は、問いに答えることである。

ゆえに、

④推論は問いを必要とする。

この①②③を証明すれば、④の証明ができます。

#①の証明

①を証明するには、基本的な推論規則のそれぞれについて①が成り立つことを証明するしかないでしょう。例えば、→の消去規則は次の推論です。

   p,p→r┣r

この推論と同じ前提から、つぎのような結論を導出することが可能です。

   p,p→r┣rⅤs

   p,p→r┣p

   p,p→r┣p∧r  

   p,p→r┣pⅤr

   p,p→r┣pⅤs

他の導入規則や除去規則についても同様にして、多様な結論が導出可能です。

なお、論理結合子の導入規則と除去規則は、ゲンツェンが挙げているもの以外にも可能であるかもしれません。例えば、

   p,p→r┣p∧r

これを→除去の論理規則とし、これにp∧r┣rという∧除去の規則を適用して。

   p,p→r┣r

を導出された規則とみなすことも可能です。つまり、次の二つの推論のいずれを→の除去規則とすることも可能です。

   p,p→r┣p∧r

   p,p→r┣r

どのような基本導出規則の集合を設定するかは、論理的にはおそらく任意でしょう。

#②は自明であり、証明の必要はないでしょう。

#③の証明

証明1:本書での証明

「問いの答えを見つけるプロセスには、次の二通りがある。一つは、これまで念頭に説明してきたものであり、<ある問いに対する答えを見つけようとして、すでに知っている知識を前提として、そこから推論によって答えを求めようとする場合>である。もう一つは、これまで言及してこなかったものだが、<問いに対するある暫定的な答えないし答えの予想をえて、それを証明するために、それを結論とする推論を考える場合>である。この後者の場合には、推論の前提に先立って、まず結論が不確実なものとして与えられ、それを確実なものとして証明するために推論を構成しようとして利用できる前提を探すことになる。この場合にも、当初の不確実な命題は問いの答えとして想定されるのであって、<推論は問いの(確実な)答えを求めるプロセスである>といえるだろう。私たちが推論する場合としては、この二通りしかないだろう。」(『問答の言語哲学』p. 9)

上記をまとめると、私たちが推論するのは次の二つの場合です。

場合1:<ある問いに対する答えを見つけようとして、すでに知っている知識を前提として、そこから推論によって答えを求めようとする場合>

場合2:<問いに対するある暫定的な答えないし答えの予想をえて、それを証明するために、それを結論とする推論を考える場合>

もし私たちが、推論するのは、本当にこの二通りしかないのだとすると、どちらの場合にも、<推論は問いの(確実な)答えを求めるプロセスである>と言えるので、③が成り立つでしょう。ちなみに、場合1では、相関質問は補足疑問になり、場合2では、相関質問は決定疑問になります。

証明2:

「全ての選択は、問いに答えることである」が証明できれば、それにもとづいて③「推論における結論の選択は、問いに答えることである」を導出できます。「全ての選択は、問いに答えることである」は、次のように証明できます。

 「Aをするかしないか」というもっとも単純な選択の場合、例えば朝目覚めた時、「起きるか起きないか」の選択をします。迷い続けるとすれば、起きないことを選択していることになります。その意味で、朝目覚めた時、起きるか起きないかの選択は不可避です。この選択は「起きようか、もうすこし寝ようか?」という問いに答えることとして行われます。

 選択肢がより多い場合も同様です。たとえば<Aを選択するか、Bを選択するか、Cを選択するか>という選択肢からの選択の場合、この選択は、「Aを選択するか、Bを選択するか、Cを選択するか、何も選択しないか?」という問いに答えることになるでしょう。

補足:選択が可能になる条件は、次のようなことです。

  <ある事柄を選択することが可能であると信じること>

これは、次と同じです。

  <ある選択肢を理解していること>

ここで次の二つの関係を考えてみましょう。

①選択が可能であること

②選択が可能であると信じていること

②が成立しなければ、選択は不可能です。ゆえに②は①にかならず伴っています。しかし、逆に②が成立していても、①が成立しているとは限りません。例えば、私は、ケーキを一個買うことも二個買うこともできると信じているのだが、財布の中には一個かうお金しかない場合には、一個買うか二個買うかの選択はできません。

そして、重要なことは、<選択が可能であると理解するとき、選択は不可避になる>ということです。なぜなら、それらのどれも選択しないことも一つの選択になるからです。

42 これまでの話のまとめと今後の予定 (20210811)

[カテゴリー:問答の観点からの認識]

これまでの話は、次の4つのパートに分けられます。

第1パート:01回から03回は、認識についての問答の区別を論じています。

第2パート:04回から16回は、錯覚論証の検討と批判を行い、脳科学と素朴実在論の結合を提案しました。

第3パート:17回から29回は、知覚と知覚報告と問いの関係を考察し、<Q1→探索→発見(知覚)→A1(知覚報告)>という入れ子型の関係になっていることを説明しました。

21~26回に、知覚判断の特徴(単称判断、肯定判断、現在形)、27~29回に、多くの経験判断は知覚報告に還元されないことを考察しました。

第4パート:30回からは、知覚報告に還元不可能な経験判断についての考察を始めました。

30回、経験判断を答えとする問答が、二重問答関係、直列問答関係、並列問答関係によって生じることを説明。

31回では、類推が条件反射とは異なることを確認し、32回から帰納法の前提となる「自然の斉一性原理」の考察をはじめました。33回に、それが検証も反証も可能ではないこと、経験判断ではないことを確認し、34回に、自然の斉一性原理の問答論的超越論的証明を試みました。

35~41回では、「世界の無矛盾性」「世界の斉一性」についての考察を始めました。

36回で「分析的に真」と「アプリオリに真」の新しい定義の提案し、37回に論理的概念と経験概念を、保存拡大性を持つか否かで区別することを提案し、38回からはカルナップの「擬似対象文」の概念を参考にして、検討を行いました。41回でたどり着いた結論は、「世界の矛盾性」は論理法則であり、世界の実質とは無関係なテーゼであること、「自然の斉一性原理」は、擬似対象文ではなく、世界の実質と関わる主張であるが、それは検証も反証もできないこと、(帰納推論に限らず)自然についての探究一般が「自然の斉一性」を前提していること、でした。

この第4パートは、全体の見通しなしに検討を重ねって言ったために、多くの論点が錯綜して、わかりにくいものになってしまいました。第4パートの結論としては、知覚報告をふくめて経験判断は、「自然の斉一性原理」を想定しているということです。その証明としては、34回でのべた「自然の斉一性原理」の問答論的超越論的証明が正しかったように思うのですが、そこでは「問いの前提」の理解が曖昧であったので、これを明らかにする必要があります。

#今後の予定

上の課題を念頭に置きつつ、次回からは、第5パートとして「論理学と自然科学の区別」を検討します。その後で、第6パートして「現象の領域」(現象的概念や現象的法則)と「理論の領域」(理論的概念と理論的法則)の区別を検討します(私はクワインの言う「認識論の自然化」に賛成ですが、しかしカルナップが試みていた認識論である「科学の論理学(論理的構文論と意味論)」が全面的に無効になるということもないと思いますので、それをどのように修正する必要があるのかを第6パートで検討したいと思います)。

41 自然の斉一性原理は、「P-妥当的」ではない (20210809)

[カテゴリー:問答の観点からの認識]

#自然の斉一性原理は、「P-妥当的」ではない

「P-妥当的」な擬似対象文であるとは、その実質的形式の発話を構文論的文に書き換えたときに、論理法則と意味公準と物理法則から導出できるということです。しかし、自然の斉一性が「すべての自然現象は規則的である」と表現できるのであれば、これは、論理法則や意味公準から導出できないし、また特定の物理法則からは「すべての自然現象」についての斉一性を導出することはできません。したがって、自然の斉一性原理は、「P-妥当的」な擬似対象文ではありません。

#すべての実質様相の文(対象文)は、ある意味では、形式様相の文(構文論的文)に書き換えられるが、しかしすべての実質様相の文が、擬似対象文なのではない。

 すべての文について、それを構成している語の構文論的関係を語ることができます。しかしその構文論的文が、もとの文と等値であるとは限りません。この二つが等置であるとき、つまり、「ある対象文が真であるとは、それの構文論的文が真であるとき、その時に限る」が成り立つとき、つまりある対象文がそれと等値な構文論的文を持つとき、その対象文を擬似対象文と呼ぶことにしたいと思います(カルナップもこう考えると思うのですが、自信がありません)。こう理解するとき、「自然は斉一的である」は擬似対象文ではありません。

ところで、「自然の斉一性」は帰納推論の前提として語られることが多いのですが、帰納によるのであれ、その他の仕方によるのであれ、自然法則を求めるときには、自然現象が規則的であること、つまり法則的であることを想定しています。つまり、およそ自然研究をするときには、私たちはつねに自然の斉一性を想定していると言えると思います。

(次回は、これまでの話を振り返ってまとめておきたいとおもいます。)

40 自然の斉一性 (20210807)

[カテゴリー:問答の観点からの認識]

(昨日、スピノザとドイツ哲学についてのZoom研究会があり、発表の準備のために更新がおくれてしまいました。研究会の方が有意義でした。Zoomは、便利ですね。)

 「世界は斉一的である」とは、「世界の現象は規則的である」という意味であり、さらに明確に言えば、「世界の全ての現象は規則的である」と言い換えられるでしょう。これは帰納推論をするときに、前提として想定されていることです。

 この命題は全称命題ですから、単称の観察命題では検証できません。

 ではこの命題は反証可能でしょうか。これは、「すべてのxに関して、xが世界の現象であるならば、xを支配している法則がある」と言い換えられますが、これは、xを支配する法則が、具体的にどのような法則であるかは述べていません。このような命題は反証不可能です。より一般的に言って、「条件Cを満たす対象が存在する」という形式の命題は、具体的にどの対象がその条件Cを満たすかを述べていないので、反証することができないのです。

 「世界は斉一的である」は、「分析的に真」ではないでしょう。なぜなら「斉一性」は論理的概念ではないからです。では、これは「P-妥当的」でしょうか。しかし、これは物理法則からは、導出できません。従って「P-妥当的」でもありません。では、これは擬似対象文ではなくて、対象文なのでしょうか?

39「分析的」と「P-妥当的」 (20210802)

[カテゴリー:問答の観点からの認識]

#カルナップによる「分析的」と「P-妥当的」

カルナップは『論理的構文論:哲学する方法』(原著1934)では、真なる文を次の3つに区別していました。

「分析的」(L-妥当的):論理学と数学の規則(L規則)だけが理由で真であるような文。

「P-妥当的」:物理法則(P-規則)とL規則が理由で真であるような文

「事実的」:事実によって真であるような文

前回述べたように、カルナップが「擬似対象文」と呼ぶものには、「分析的」なものと「P-妥当的」なものがあります(後に述べますが、これら以外のものもあります。)

その例は、次のようなものです。

実質様相の発話         形式様相の発話

6 a. The expressions ‘merle’ and ‘blackbird’ have the same meaning (or : mean the same ; or : have the same intensional object). 表現「マール」と「クロウタドリ」は同じ意味を持つ6 b. ‘Merle’ and ‘blackbird ‘are L-synonymous. 「マール」と「クロウタドリ」はL-同義である。 {これは、分析的}
7 a. ‘Evening star’ and’ morning star’ have a different meaning, but they designate the same object. 「宵の明星」と「明けの明星」は異なる意味を持つが同じ対象を表示する。7 b. ‘Evening star’ and ‘morning star’ are not L-synonymous, but P-synonymous. 「宵の明星」と「明けの明星」はL-同義ではないが、P-同義である。 {これはP-妥当的}

(Carnap, Logical Syntax of Language, 1937, Reprinted 2002 by Routledge,290)

6の「マール」と「クロウタドリ」は、どちらも一般名(自然種名)ですが、同じ種を指示する語のようです。従って、これらが同義であることは、語の意味論的規則に基づいて成り立つ分析的な真理となります。これに対して7の「宵の明星」と「明けの明星」は、同一対象を指示する単称確定記述句です。それらの指示対象が同一になることは、世界のあり方に依存する事なので事実的真理なのですが、単に事実的真理というのではなくて、さらにP-妥当的とみなすということは、太陽系における第二惑星(金星)と第三惑星(地球)の天文学的な位置関係から、金星が「宵の明星」や「明けの明星」として見えることが、自然法則によって説明出来るということなのでしょう。

擬似対象文には、このように分析的に真なるものとP-妥当的に真なるもの以外に、単に事実的に真なるものも含まれます。カルナップの挙げている例では、次のようなものがあります。

「昨日の講義はバビロンについてだった」(実質様相の発話:擬似対象文))

「昨日の講義には、語「バビロン」が登場した」(形式様相の発話:構文論的文)

以上をもとに、「世界は無矛盾である」について考察しましょう。

#「世界は無矛盾である」は、擬似対象文である

私たちが世界を記述するときに採用する論理体系が無矛盾であるとすると、「世界の記述は無矛盾である」が成り立つでしょう。ところで、「世界に矛盾は存在しない」は、擬似対象文であり、構文論的文に直したものは「世界の記述は、無矛盾である」とまります。これは論理的に真なる文であり、分析的に真です。しかし、論理的な文は、世界のありようについては、何も語っていません。

ちなみに、カルナップはこの時期には「分析的」に真としていたものを、後には(遅くとも『物理学の哲学的基礎』1966では)、「L-真」(論理的に真)と「分析的に真」(A-真」)に分けます。L-真なものとは、論理的な規則のみによって真であるものであり、分析的に真とは、「独身者は、結婚していない」のように意味論的規則と論理的規則によって真であるものを指します。つまり、分析的に真なるものは、L-真なるものを含むより広い概念です。(この変化は、これはクワインの影響だと思われます。)

 ところで、カルナップは、この意味論的規則を「意味公準」とか「A-公準」とか「分析公準」と呼びます。例えば次のようなものがあります。

  A1「すべての鳥は動物である。」

  A2「すべての赤頭キツツキは鳥である」

A-公準は、擬似対象文であり、分析的に真なるものです。これについて、カルナップは次のように言います。

「A-公準は実際の世界について何かを語っているように思われるかもしれないが、そうではない、ということである。」(カルナップ『物理学の哲学的基礎』沢田充茂、中山浩一郎、持丸悦朗訳、岩波書店、1975、270)

L-真なるものや、A-真なるものは、事実によって真となるのではないので、それは事実について何も語らないのです。(これはすでにウィトゲンシュタインが『論理哲学論考』で述べていたことです。)

では、「世界は斉一的である」はどうなるのでしょうか。