34 フィヒテの反実在論 (20210930) 

[カテゴリー:日々是哲学]

(フィヒテとスピノザに関する論文とある本の査読がようやく終わりました。あと、科研の申請書が残っていますが、それも峠を越えましたので、これから元のペースでかきこみできるだろうと思います。)

 前回次のように述べました。

フィヒテは、カントの「統覚」の概念に触発されて、<存在することは、知られることである>と考えました(フィヒテの表現では、例えば「あらゆる存在が知性の思考によってのみ生じ、それ以外の存在については何も知らないとする」となります)。ここから、知の存在もまたさらに知られていることになります。また知と知の関係も、関係が存在するためには、知られている必要があります。これらを反復すると、全ての知を包括する一つの知(絶対知)に行き着きます。

  この論証の難点は、<存在することは、知られることである>という出発点にあります。フィヒテは、カントの「統覚」の概念から、このことに思い至ったのだろうと思われます。しかし、カントは、フィヒテのようには考えませんでした。カントは次のように言うだけです。「あらゆる表象に、「私が考える」が伴い得るのではなければならない」。

 これは、あらゆる表象について、もし「あなたはそれを考えていますか?」と問われたら、「はい、私はそれを考えています」と答えることになる、という意味だと思います。例えば、私の部屋の中にあるすべて物について、私はそれが存在すると考えているのではありません。わたしが、そう考えていないときにも、部屋の中のものはありますし、その部屋の中にはないと考えていたものすら、見つかることがあります。

 フィヒテは、このような反論にどう答えるでしょうか。おそらくダメットの反実在論のような答え方をするでしょう。例えば、部屋の中にはないと思っていた昔の爪切りが出てきたとしましょう。このとき、爪切りを発見した時、爪切りは知られることによって、存在していると言えるのですが、普通は、爪切りを発見する前も爪切りは部屋の中に存在していたと考えるでしょう。つまり、「爪切りは私の部屋の中に存在するかしないかのどちらかである」(二値原理)が正しいと考えます。「爪切りが発見されたのだから、発見していなかった時にも、爪切りは存在したのだ」と考えます。古典論理の二値原理は、物の存在がそれの表象から独立しているという実在論とこのように結合しています。それに対して古典論理の二値原理をとらず、直観主義論理を採用するときには、物が存在するかしないか、を知らないときには、「その物は存在するかしないかのどちらかである」という二値原理は妥当しないと考えます。つまり、爪切りを発見する前には、爪切りはあるともないとも言えません。これは「爪切りがあるかないか分からない」ということではありません。「爪切りが有るか無いか決まっていない」ということです。

 つまり、反実在論の立場で、<存在することは、知られることである>と主張るときには、<知られていないものは、存在しない>ということではなく、<知られていないものは、あるかないか、決まっていない>と主張することになるだろうと思います。反実在論の立場では、「ある対象xが存在しない」と語るためには、「ある対象xが存在しない」ということが知られている必要があります。

 フィヒテがこのように考えていることの証拠となるのは、次の箇所です。ここでフィヒテが例に上げる判断は「Aは赤い」です。

「赤い色に関して、Aは判断に先立ってどのように存在しているであろうか。明らかに無限定である。Aには全ての色が所属しうる、その中で赤色も所属しうる。判断によってはじめて、すなわち繋辞「ある」によって自己の活動を表すところの構想力を介しての判断の綜合的な活動によってはじめて無限定なものが限定される。」(「知識学の特性綱要」SWI, 380. 全集訳4, 415)

では、ある人が「Aは赤い」と判断したが、そのあと「Aは青い」と解ったとしましょう。この時、実在論者は、対象Aの色は、それについての判断とは独立に成立しており、人がそれを「Aは赤い」と判断した時にも、実際には青色であったと考えるでしょう。これに対して、フィヒテは、私たちの判断とは独立に、対象Aが存在したり、色を持ったりするとは考えません。では、フィヒテは、ある人が「Aは赤い」と判断した時には、Aは赤く、その後「Aは青い」と判断した時には、Aは青くなったと考えるのでしょうか。そうではないでしょう。なぜなら、これは明らかにおかしいからです。ある人の判断が変化した時、その人が信じていることは、<彼女が以前には「Aが赤い」と判断したものを、その後「Aは青い」と判断するようになり、そのようにAについての知が変化した>ということです。つまり、フィヒテもまた、AとAについての知を区別するのですが、その区別は知の内部における知です。この場合に存在するのは、知の変化ではなく、知の変化の知なのです。

(話がズレてしまいましたが、ここからフィヒテのスピノザ批判の話に何とかして、戻ってゆきたいと思っています。)

投稿者:

irieyukio

問答の哲学研究、ドイツ観念論研究、を専門にしています。 2019年3月に大阪大学を定年退職し、現在は名誉教授です。 香川県丸亀市生まれ、奈良市在住。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です