[カテゴリー:問答の観点からの認識]
前回の最後に、次を説明すると予告しました
<法則は、経験法則と理論法則に区別可能であるが、経験法則は、他の全称命題を導出してもそれを法則とすることはないが、理論法則は、他の全称命題を法則にすることが可能である。>
しかし、これが成立しないことがわかりましたので、まずそのことを確認しておきたいとおもいます(サクサクと進まなくてすみません)。
この冒頭部分について。
<法則は、経験法則と理論法則に区別可能である>
カルナップも言うように、厳密には、経験法則と理論法則を区別することはできないのですが、しかしこの区別をとりあえずは受け入れておきます。次に残りの部分
<経験法則は、他の全称命題を導出してもそれを法則とすることはないが、理論法則は、他の全称命題を法則にすることが可能である。>
この部分を次のように書き換えるべきだと考えます。
<全称命題は、それだけでは法則となるには不十分である。(論理法則の場合を除いて)法則は、常に他の法則から導出されている必要がある。>
#経験法則の場合
<経験的全称命題が経験法則になるためには、他の法則(経験法則ないし理論法則)から導出される必要がある。経験法則は、最終的には理論法則によって、法則として導出される。>
#理論法則の場合
理論法則もまた他の理論法則から導出されることによって法則になるだろう。では、科学理論の公理体系の場合に、公理となる理論法則の場合はどうだろうか。その理論法則は、より上位の法則を持たない。これは、それに用いられる理論的語彙の意味論的規則によって法則となるのだろうか。それとも、それを法則とするのは、帰納法や自然の斉一性原理のようなものだろうか。(これについて、次回考えたいと思います。)
ちなみに論理法則については、次のように考えられると思います。
#論理法則の場合
論理法則の場合は、事情が異なる。論理体系の定理が法則となるのは、それが公理から導出されることによる(論理体系の定理と公理は、全称命題に書き換え可能である)。そして、公理は、他の法則から導出されなくても、法則である。なぜなら、公理が法則であることは、論理的語彙の意味論的規則(の規約)に基づくからである。