52 朱喜哲さんへの回答(3)「真理」概念の原初性について(20211130)

[カテゴリー:『問答の言語哲学』をめぐって]

次に第二の指摘に答えたいと思います。

(2)「真なる推論」を「推論が妥当であり、かつすべての前提と結論が真であることだと定義できる」([『問答の言語哲学』] 122)という箇所での「「真」用法は――真理条件意味論的な「真理」の原初概念を持ち込んでいる記述と解するべきだろう。」(5)と指摘します。

まず朱さんが引用している箇所を説明します。

 そこは「なぜ」の問いを考察したところです。ふつうは問いの答えは文になるのですが、「なぜ」の問いの答えは文ではなく推論になります。例えば「なぜpなのですか?」と言う問いに対する答えは、例えば「rが成り立ち、sが成り立つので、pが成り立ちます」(「r、s、┣p」)というような推論になります。この「なぜ」の問いへの答えが真であるとは、この推論が正しいということです。ここではそれを「推論が真である」ことだと表現しました。(念のために言えば、もし推論が真理値を持たない文を前提や結論にもつ推論であるならば、「推論が適切である」ことだということになります。ただし、その場合でも朱さんの指摘は、「真理性」であれ「適切性」であれ、そのまま成り立つと思います。ここでは前提や結論が真理値を持つ場合について説明します。)

 「なぜ」の問いへの答えが真であるとは、推論が妥当であることより多くのことを意味します。「なぜpなのですか?」という問いは「p」が成り立つことを前提し、その原因(理由、根拠)を求めているのですから、それへの答えは、例えば「q、s┣p」という推論が妥当(正しい)であることだけでなく、その前提である「q」と「s」もまた成り立つことを主張しています。

 したがって、「なぜ」の問いの答えは、ヘンペルが言うように推論になるのですが、しかし妥当な推論を答えるだけでなく、「前提が成り立ち、それゆえに結論も成りたっている妥当な推論」を答える必要があります。私はここではそれを「真なる推論」と呼びました。

 以上が朱さんが引用していた箇所で説明したことです。

 さて、朱さんの指摘は以下でした。

「真なる推論」を「推論が妥当であり、かつすべての前提と結論が真であることだと定義できる」([『問答の言語哲学』] 122)という箇所での「「真」用法は――真理条件意味論的な「真理」の原初概念を持ち込んでいる記述と解するべきだろう。」(5)と指摘します。

 私の当該箇所が、「真理」概念を「推論」に先行して成立する原初概念として扱っているという指摘は、重要な指摘と思います(ただし、その「真理」概念が真理条件意味論的な「真理」概念であるとは限らないとおもいます。この個所は、真理の整合説、真理の合意説、真理のプラグマティズムなどとも整合的ですし、それ以外の真理論とも整合的だと思います)。

 この指摘は大変重要な点をついていると思うのですが、この指摘(を受け入れるかどうか)に答える前に、ブランダムならば、「なぜ」の問いへの答えをどう説明することになるのか、を考えたいと思います。

 ブランダムの場合、「なぜ」の問いへの答えは、正しい実質推論となるでしょう。しかし、それだけでは不十分です。なぜなら、この場合にも「なぜpなのか?」という問いは「p」が成立することを前提しており、「なぜpが成立するのか?」を説明しなければならないのですが、pを結論となる正しい実質推論を示すだけでは、不十分だからです。実質推論にも前提と結論の部分があって、実質推論が正しいとは、<前提が成立するならば結論が成立する>ということを主張しています。たとえば、ブランダムがよく使う実質推論の例「雨が降ったら道路が濡れる」では、<「雨が降る」という前提が成立したら、「道路が濡れる」という結論が成立する>と主張しています。

 「なぜ道路が濡れているのか?」という問いに、「雨が降ったから道路が濡れているのです」と答えるときに行っていることは、単に「雨が降ったら道路が濡れる」という実質推論の正しさを主張することだけでなく、前提「雨が降った」が成立しており、それゆえに結論「道路が濡れている」が成立している、と主張することです。

 もしブランダムがこう議論するとしたとき、そこから、「命題」の成立を原初概念にしていると言えるでしょうか。ブランダムが言うように、命題の意味は推論関係に基づくのです。しかし、その命題を(単に理解するだけでなく)主張することは、その推論関係を理解したり主張したりすること以上のことをしています。例えば、その命題のある上流推論が可能であることを主張するだけでなく、その上流推論の結論が成り立つことを主張しなければならず、そのためにはある上流推論の前提が成り立つことを主張しなければなりません。例えば、可能な上流推論を認めるだけでなく、ある上流推論が現実に生じていること(つまりその前提が成立しており、それゆえに結論が成立していること)を主張しなければなりません。このような議論は「規範的語用論」に属するのだろうと思います。

 ブランダムは「規範的語用論」では、「命題」へのコミットメントを原初概念にしていると言えるでしょう。なぜなら彼は次のように考えるからです。

「カントは判断を経験の(そしてまた、彼の言説的な意味における意識の)最小単位とみなした。なぜなら、判断は、伝統的な論理的階層の中で人が責任をもつことにできる最初の要素であるからである。[…]推論主義は本質的に命題主義的な教説なのだ」(ブランダム『推論主義序説』斎藤浩文訳、春秋社、2016、訳18f)

 それにしても、「命題」へのコミットメントを原初概念にすることと、「真理」概念を原初概念にすることの間には、大きな違いがある、という指摘があるかもしれません。

 これについて、次に答えたいと思います。

51 朱喜哲さんへの回答(2)問答推論の規範性と実質推論の規範性(20211129)

[カテゴリー:『問答の言語哲学』をめぐって]

まず次の「相違」についてお答えします。

(1)「「問答推論の正しさ」は先述した実質推論のもつ規範性とは、少なくとも相違があるだろう。」(5)

『問答の言語哲学』では、「実質問答推論」という表現を用いていないのですが、私は問答推論もまた「実質推論」であると考えています。問答推論が実質問答推論であるとき、実質問答推論の規範性は、ブランダムのいう「実質推論」のもつ規範性と同種のものだと考えています。つまり、それは社会的サンクションによって正当化されるものです。

 (ただし、問答関係が成立するための必然的な条件を満たす必要があるので、拙著第4章で説明したような、超越論的な問答推論というものを考えます。他方で、ブランダムにも「経験的なよさ」だけに基づかないような議論があります。例えば、論理的語彙が「保存拡大性」をもつということは、(私の問答推論主義にとっても重要ですが)彼の推論主義にとって重要な出発点ですが、論理的語彙の「保存拡大性」は経験的な事柄ではありません。)

 朱さんの指摘の眼目は、問いに対する答えの正しさと、推論の正しさは、異種的なものである、ということだと思います。私は、(人類においても、個人史においても、個々のの認識の発生においても)原初的には問答と推論は結合したものとして、つまり問答推論として成立していると考えています。後の発達した段階で、問答関係と推論関係に分節化し、別々に成立しているかのように見えるのだろうと考えています。

 私は、<推論は何らかの問いに答えるプロセスとして行われ、また問いに答えることは何らかの推論によって行われる>と考えようとしています。その論証がまだ不十分であることは認めますが、このように考えているがゆえに、問答主義と推論主義が両立しないとは考えていません。拙論の中に不十分な記述があって、両立しないように見えるところがあれば、とりあえず、拙論の方に修正の必要があるのだろうと思います。(ブランダムの推論主義を超えていきたいとは思っているのですが、推論主義の長所を拡張・展開する形で超えてゆきたいと思っています。) 

 ところで、『問答の言語哲学』のプログラムとブランダムのプログラムを対比させるとき、「問答主義」と「推論主義」ではなく、「問答推論主義」と「推論主義」という対比として理解してもらうことが、私の希望です。

 (もし私が「問答主義」という表現を使うとすれば、その時に対比されるのは、「命題主義」とでも呼ぶべきものになります。現在私は、「認識」は、命題としてではなく問答として成立し、「真理」は命題に述語づけられるのではなく、問答に述語づけられる、と考えたいと思っているからです。ただしこのことは、『問答の言語哲学』ではまだぼんやりとしか考えていなかったことです。)

50 朱喜哲さんへの回答(1)(20211128)

[カテゴリー:『問答の言語哲学』をめぐって]

朱さんのご質問「問答主義者は、同時に推論主義者であることができるのか?」は、次の構成になっています。

  1.導入

  2.用語確認と課題設定

  3.推論主義プログラムとそのモチベーション

  4.推論主義と問答主義は両立するのか?

  5.「メタ意味論」としての推論主義と問答主義の共存可能性

以下、順番に簡単に内容を紹介します。

「1.導入」は、拙著のプログラムとブランダムの構想の比較をおこない、タイトルの問い「問答主義者は、同時に推論主義者であることができるのか?」に否定的に答え、それを踏まえて提案を行うことを予告しています。

「2.用語確認と課題設定」では、拙著の立場を「問答主義」(問答推論的意味論+問答推論的語用論」のペアの構築を目指すもの)とし、ブランダムの立場を「推論主義」(「推論的意味論+規範的語用論」のペアの構築を目指すもの)と名付け。この二つのプログラムが「どれだけ重なり、あるいは齟齬があるのか」を論じています。

 私は問答推論的意味論でブランダムの推論的意味を「拡張」しようとしているのですが、しかし、朱さんからみると、必ずしもそうなっていない点があると言われます。具体的な齟齬は、後の4で説明されます。

「3.推論主義プログラムとそのモチベーション」では、ブランダムの推論主義の特徴を説明します。「推論主義では、「社会的な「規範性」」が原初的な概念となるのに対して、「一般的な語用論とは切り離せる――意味論の場合」には、「ことばと対応する世界やそうした表象関係における「真理性」は原初的な概念となる」とされます。

 この「推論主義」のモチベーションは、「[社会で]流通する規範性だけを説明資源として真理性や客観性、ことばと世界との関係までをも説明しよう」ということです。

「4.推論主義と問答主義は両立するのか?」では、この見出しの問いに対して。両立しないと答えます。朱さんは、「「推論」と「問答」は当然ながら異なる言語実践である」(4)とみなし、「問答実践はある意味で推論実践を補完する」(4)ことは認めながらも、「社会規範としての「よし/あし」が問われる「推論」関係と、問肯定の組み合わせのパターンと規則を持ち「正解/不正解」が問われる「問答」関係とは、異なる関係性」(4)であると主張します。

この点のより具体的な指摘としては、次のようなことがあります(列挙すれば次の5つになると思います)。

(1)「「問答推論の正しさ」は先述した実質推論のもつ規範性とは、少なくとも相違があるだろう。」(5)

(2)「真なる推論」を「推論が妥当であり、かつすべての前提と結論が真であることだと定義」([『問答の言語哲学』] 122)している箇所での「「真」用法は――真理条件意味論的な「真理」の原初概念を持ち込んでいる記述と解するべきだろう。」(5) と指摘します。

(3)脚注5では、「すべての発話は暗黙的に依頼(質問)である」(『問答の言語哲学』197)

という主張は、「~せよ」という発話を「~してくれませんか?」にパラフレーズ可能なものとにしてしまうため、「「規範性」の明示化というプログラムにとっては採用できない(かメリットのない)提案」であると指摘します。

(4)問答主義では、知覚報告の扱いが「超推論主義」になっていると指摘します(脚注6)。

(5)脚注8では、「推論主義ならば扱わなくてよい課題」の典型が「合成性の説明」であると指摘します。その理由は、ブランダムがBrandom(2010), p.336.で述べているということです。

5.「メタ意味論」としての推論主義と問答主義の共存可能性

 朱さんは、4での考察から、問答主義と推論主義は両立しないと結論します。

 しかし、もし「推論主義」プログラムを「フルパッケージ」で運用するのではなく、「推論主義」を意味論の方針を示す「メタ意味論」として採用するならば、Chrisman (2016) のように真理条件意味論と組み合わせることは可能であり、同様に「推論主義」を「問答主義」と組み合わせることも可能であると見なします。そこで、「まずはメタ意味論としての「問答主義」の定式化をおこない、そのうえで折衷主義をとれるなら具体的な棲み分けを検討するというステップが望ましいのではないだろうか」(6) と提案します。

以上のような質問に対して、合評会で、私は「推論主義」プログラムをフルパッケージで採用したいと答えました。そのためには、朱さんが4で指摘した齟齬、つまり『問答の言語哲学』の中の推論主義と両立しないように見える点を説明し、場合によっては修正する必要があるでしょう(合評会当日、若干説明を試みましたが、不十分なものでした)。4での具体的な5つの指摘は、私にとって大変有益なものでした。ありがとうございました。次に、これらの具体的な指摘に答えたいと思います。

37 問答とメタバース (20211127)

[ 日々是哲学]

 決定疑問は諾否の二つの答えの可能性を考えることによって成立します。補足疑問は、疑問詞に複数の文未満表現が代入される可能性を考えることによって成立します。補足疑問を問うことは、答えに対して開かれていることですが、決定疑問もまた答えに対して開かれています。

 このように問いは、複数の答えを想定します。これは複数の世界を想定ということでもあります。この複数の世界は、哲学で言うところの「可能世界」ですが、インターネットないしコンピュータ上に構成される仮想世界(メタバース)もまた、この可能世界の一種です。

 問いに答えることは、一つの答えを選択することです。つまり、問いは複数の世界を想定し、答えることは一つの世界を選択することなのです。そして、一つの世界を選択することは、その世界にコミットすることです。

 私たちは可能世界やメタバースの中でも、他の人やAIと問答します。そのときの問いは、複数の可能世界やメタバースの可能性を開き、それに答えることは、一つの可能世界やメタバースを選択することです。メタバースの中で問いを立て答えることは、メタバースの中にメタバースを開き、その一つを選択することです。こうした世界の複数展開が続くとき、一体私たちは、どの世界に住むことになるのでしょうか。

 ここで特に言いたいことは、人間が問答するとき、それはこれまでも常に複数の世界の可能性を開くことであり、そうしたことを伴わなければ、私たちは問答ができないということです。人として生きていくことは、問答することによって可能になり、問答することが常に複数の可能世界を開くことによって可能であるとすれば、私たちが生きていくことは、複数の可能世界を想定することによって可能になっているということです。フィクションは、おそらく私たちの現実世界での問答のために不可欠であり、つねにすでに現実世界を構成しており、私たちが人間的に生きることを可能にしているのです。メタバースによって、このメカニズムがこれから顕在化するのでしょう。

49 朱喜哲さんと三木那由他さんからの質問(20211126)

[カテゴリー:『問答の言語哲学』をめぐって]

合評会での朱さんと三木さんの質問を以下のリンクで見ることができます。

■朱喜哲さんの質問資料

https://researchmap.jp/heechulju/presentations/35900468

■三木那由他さんの質問資料

https://researchmap.jp/nayutamiki/presentations/35803115

合評会当日のZoom動画は、Youtubeにupされる予定です。upされましたらお知らせ致します。

朱さん、三木さん、ご質問ありがとうございました。お二人の質問への回答は、合評会当日には十分に考えて回答できなかったこともありますので、じっくりと考えた回答を、このブログで少しづつ書いてゆきます。

47 第3章の振り返り(続き)と第4章の振り返り  (20211123)

[カテゴリー:『問答の言語哲学』をめぐって]

#第3章の振り返り(続き)

 第三章では、言語行為を問答の観点から考察しましたが、ハーバーマスが『真理と正当化』(1999)で、おそらくはブランダムの影響を受けて、発話行為について推論主義の立場から次のように分析していることを昨年知りました。

 「語用論的意味理論は、フレーゲとウィトゲンシュタインが発展させた真理意味論の基本テーゼを次のように変更しなければならなくなる。つまり、発話内的行為を理解したとするのは、<何がその行為を受け入れ可能にするか>を分かっている場合であり、また<その行為が受け入れられた場合に、今後の実践にどのような帰結が生じるか>を分かっている場合である、ということである。」(ハーバーマス〚真理と正当化〛三島憲一、大竹弘二、木前利秋、鈴木直訳、法政大学ウニベルシタス、 2016、p.160、< > は引用者による強調)

 これは、ブランダムの推論的意味論と似ていますが、ブランダムは、発話の命題内容の理解をその推論関係の理解で説明したのに対して、ハーバーマスは、発語的行為の理解を、その推論関係の理解で説明しようとしている点がことなります。つまりハーバーマスは、ブランダムの推論的意味論を、拡張しようとしているのです。

 例えばpの「主張」という発語内行為を理解するのは、<何がその主張行為を受け入れ可能にするのか>、つまり<「私はpを主張する」という遂行文発話の上流推論(実践的推論)>の正否を判別する能力を持つことです。また<その行為が受け入れられた場合に、今後の実践にどのような帰結が生じるか>、つまり<「私はpを主張する」という遂行文発話の下流推論>(例えば、「もし問われれば、pの主張の根拠を示す責務を持つ」)の正否を判別する能力を持つことです。

 ちなみにこの「遂行文発話」の上流推論と下流推論については、さらに上流問答推論と下流問答推論へと拡張する必要があるでしょう。さらに、このような推論主義的なアプローチの発語内行為への拡張は、発語媒介行為の理解の説明、ヘイトスピーチの理解の説明、等にも拡張可能です。さらに、全ての行為が実践的知識によって記述されるのですから、行為(その実践的知識)の理解を、その上流問答推論と下流問答推論によって説明することも可能になりそうです。

 私が3.2で行ったことは、発語内行為の遂行文発話の上流実践推論によって説明しただけでしたので、下流推論も考慮すべきでした。またそれを問答実践推論に拡張すべきでした。

#第4章の振り返り

 4.1 では、「論理的矛盾」「意味論的矛盾」「語用論的矛盾」と区別される「問答論的矛盾」の事例を示し、その分類と説明をおこないました。「問答論的矛盾」とは不適格な問いによって引き起こされる問いと返答との間の矛盾です。このような「問答論的矛盾」は、コミュニケーションないし言語的な相互応答のための必要条件を、それを否定すると矛盾が生じるという仕方で示するものです(218)。

 4.2では、まず、問答論的矛盾と照応の関係を考察しました。問答が成立するためには、問いと答えの間に、適切な仕方で照応関係が成立していなければなりません。しかし、問答論的矛盾においては、適切な仕方で照応関係が成立しないことを指摘しました。

 次に、問答論的矛盾における問いの前提について考察しました。問いの前提は、意味論的前提と語用論的前提に区別できるが、問答論的矛盾における答えは、このどちらの前提とも矛盾しません。しかしその前提の承認要求を受け入れていません。問いに答えには、肯定の答えであれ、否定の答えであれ、問いの前提を承認する必要がありますが、それをしないので矛盾が生じるのです。

 4.3では、以上から、問答論的矛盾を避けることは、問答関係が成立するための超越論的条件だと言えるのですが、その主なものを具体的に説明しました。

#相互的な呼応関係の超越論的条件。

  ・絡路の相互確認

  ・言語の相互理解

  ・誠実性の相互確認

#問答関係の意味論的超越論的条件

  ・照応関係

  ・タイプとトークンの区別

  ・言語の規則に従うこと

#問答関係の論理的超越論的条件

  ・同一律

  ・矛盾律

#問答関係の規範的超越論的条件

  ・根拠を持って語る義務

  ・嘘の禁止

  ・相互承認の義務

 4.4では、4.3での超越論的論証が、古典論理に依拠するという限界をもつことを説明しました。

46 第3章を振り返る (20211122)

[カテゴリー:『問答の言語哲学』をめぐって]

 3.1では、命題の意味が相関質問との関係で規定されるように、発話の発語内行為は、相関質問との関係で規定される(cf.174)、ということを説明しました。この意味で、質問型発話は、他の発語内行為とは全く異なる発語内行為なのです。

 しかし、3.1の最後では、全ての発話が質問の意味を持つことを説明しました。「どのような発話であれ、聞き手がそれを受け入れてくるかどうかを問う暗黙的な質問になっている。この暗黙的な質問が、会話を継続させるように機能している。」178

 では、この二つはどう関係するのでしょうか。前者の質問は、発語内行為としての質問であり、後者の質問(全ての発話がもつ依頼や質問の働き)は、「発語媒介行為の一部である」(197)と思われます。

 3.2では、ヘイトスピーチの差別的な働きを言語行為としてどうとらえるか、という問いを検討する過程で、サールの「発話行為」「命題行為」「発語内行為」「発語媒介行為」という区別に「前提承認要求」という行為を加えることを提案しました。

 発話の前提には、論理的前提、意味論的前提、語用論的前提などがある。話し手はこれらの発話の前提を承認しているが、聞き手はそれらを理解しているとしても承認しているとは限らない。発話を行うことは、それらの前提の承認を聞き手に要求するという行為(前提承認要求)を含んでいる。

3.2の最後に書いたが、発語内行為は、意図的発語媒介行為前提とする(それを実現するための)実践的推論の結論となっている。前提承認要求は、この実践的推論において前提として働いている。

<発話の実践的推論>

  •    大前提:発語媒介行為の意図
  •    前提:真理性承認要求(ここには論理的前提、意味論的前提などの真理性承認要求も含まれる)
  •    前提:誠実性承認要求
  •    前提:正当性承認要求   
  •    ∴ 結論:発語内行為

<発話の実践的推論:ヘイトスピーチの例>

  •    大前提:発語媒介行為の意図「工事阻止行動をやめさせよう」
  •    前提:真理性承認要求「反対している人たちは、無教養な土人である」
  •    前提:誠実性承認要求「私は警官としての職務に忠実である」
  •    前提:正当性承認要求「無教養な土人は政府に文句を言う資格はない」    
  •    ∴ 結論:発語内行行為「土人が文句を言うな」(命令型発話)

3.3では、コミュニケーション(指示や述定へのコミットメント)の不可避性が、問答の不可避性に基づくことを説明しました。

45 第2章を振り返る (20211121)

[カテゴリー:『問答の言語哲学』をめぐって]

(今回も?、『問答の言語哲学』を読んでいない方には、わからない書き方になっています。詳しく説明している時間がないのでご容赦ください。合評会までに拙著の最後までを振り返っておきたいので。)

第2章の2.1で、文と命題の関係を「文は、文脈を入力すると命題を出力する関数である」と説明しました。

   関数としての文:文脈→命題

他方で、2.2では相関質問との関係によって発話の焦点が決まることを説明しました。

   相関質問:文→焦点つき命題

   (焦点つき命題=相関質問+文未満返答)

この二つの関数はどう関係するのでしょうか。これが、今回読み直していて、曖昧だったと反省他点です。この二つの関数を組み合わせると次の関数になるでしょう。

   文(関数):文脈<相関質問、話し手、世界、時間>→焦点つき命題

ここで「焦点つき命題」という概念を導入しています。文の意味を「命題」と呼び、発話の意味を「焦点つき命題」と呼ぶことが、適切であるかもしれません。「命題」を理解するとは、上流問答推論と下流問答推論について正しいものと正しくないものを判別する能力を持つことであり、「焦点つき命題」を理解することは、<この能力に加えて、発話が現実にどのような上流問答推論と下流問答推論をもっているかを理解することである>と言えます。

 2.2では、「焦点」は「命題の与えられ方」を示していると述べました。「焦点つき命題」とは、「ある与えられ方のもとで理解された命題」です。

2.2の最後に、相関質問は、より上位の問いに答えるために設定されるのであり、二重問答関係

<Q2→Q1→A1→A2>において、Q1→A1は、A1の上流問答推論を構成し、Q2→A1→A2が、A1の下流問答推論を構成することを説明しました。

2.3では、「会話の含み」をこの下流問答推論によって説明しました。

   

44 第1章を振り返る(4)実質推論の妥当性とは? (20211120)

[カテゴリー:『問答の言語哲学』をめぐって]

 ブランダムは、「何が正しい実質的推論であるか」への答えを社会的なサンクションに委ねていると思います。それは、ウィトゲンシュタインの提起した規則遵守の問題に対する答えを社会的なサンクションに委ねることでもあります(参照、MIEの第1章)。

 では、私たちはどう考えるべきでしょうか。私たちは問答推論的意味論の立場から、この問題を「何が正しい実質的な問答推論であるか」という問いに換えて問う必要があります。この問いに対しては、(第4章で論じた)問答関係が成り立つためには「問答論的矛盾」を避ける必要があり、そのための必然的な(あるいは超越論的な)問答推論が、正しい実質的問答推論であると答えることができます。しかし、実質的な問答推論にはこの基礎的な問答推論だけでなく、それ以外に無数の多様な問答推論があります。では、それらの実質的問答推論の正しさについてはどう考えればよいでしょうか。これについては、本書に続く予定の『問答の理論哲学』『問答の実践哲学』で詳しく扱うことになりますが、社会的サンクションが答えになるということ以上のことが言えるかどうか、まだわかりません。