55 朱喜哲さんへの回答(6)第三と第四の指摘について(20211203)

[カテゴリー:『問答の言語哲学』をめぐって]

まず第三の指摘に答えたいと思います。

(3)脚注5では、「すべての発話は暗黙的に依頼(質問)である」(『問答の言語哲学』197)という主張は、「~せよ」という発話を「~してくれませんか?」にパラフレーズ可能なものとにしてしまうため、「「規範性」の明示化というプログラムにとっては採用できない(かメリットのない)提案」であると指摘する。

前に合評会の準備のために書いた43回「第3章を振り返る (20211122)」で説明したのですが、

3.1.2.2では、質問型発話は、返答の発語内行為を決定しており、その意味で他の発語内行為とは全く異なる特異な発語内行為であることを説明しましたが、他方3.1.3では、全ての発話が質問の意味を持つことを次のように説明しました。「どのような発話であれ、聞き手がそれを受け入れてくるかどうかを問う暗黙的な質問になっている。この暗黙的な質問が、会話を継続させるように機能している。」(『問答の言語哲学』178)

 この二つは、前者の質問は発語内行為としての質問であり、後者の質問(全ての発話がもつ依頼や質問の働き)は「発語媒介行為の一部である」(197)、という関係にあります。従って、「〜せよ」「〜すべし」「〜せねばならぬ」等がすべて「〜してくれませんか?」にパラフレーズされるということはありません。確かに、「~せよ」や「~すべし」などの発話もまた、暗黙的に依頼(質問)であると考えます。しかしそれは「~せよ」が「~してくれませんか?」と同義であるということではありません。例えば、「校則を守れ」は、「校則を持ってくれませんか?」とか「校則は守るべきですか?」と同義ではありませんが、しかし、「校則を守れ」という発話が、同時に暗黙的に「校則を守らなくていいのですか?」「校則は守るべきではないですか?」などの問いを含みとして持つことは可能ですし、また現実にそうだと考えています。(例えば、朱さんの今回のご質問の中での個々の指摘も、暗黙的には質問になっているのではないでしょうか。)

 朱さんは、実質推論が修正に対して開かれていることを指摘されていました。私もまた「問答推論」が実質問答推論として成立すると考えており、その限りで、問答推論もまた修正に対して開かれていると考えています。推論やその結論が修正に対して開かれていることは、その発話が暗黙的に依頼(質問)になっている、ということだと考えています。この意味で、「すべての発話は暗黙的に依頼(質問)である」という主張は、ブランダムの「実質推論」の主張と両立するだろと思います。

 次に第四の指摘に答えたいと思います。

(4)脚注5では、問答主義では、知覚報告の扱いが、超推論主義になっていると指摘します。

まず、ブランダムによる「3つの推論主義」の区別を紹介します。

「弱い推論主義は、<推論的分節化が概念的内容の必要なアスペクトである>という主張である。」(『推論主義序説』前掲訳299、下線や< >は、入江の付記です。)

「強い推論主義は、<広い意味の推論的分節化が、概念的内容(その表象的な次元を含む)を決定するのに十分である>という主張である。」(同所)

「超推論主義は、<狭い意味の推論的分節化が、概念的内容を決定するのに十分である>という主張である。」(同所)

ブランダム自身は、「強い推論主義」を採用します。例えば、知覚報告は、何らかの前提からの推論によって導出されるのではなく、知覚から直接に帰結すると考えるのですが、しかし、その知覚報告は、知覚から直接に帰結するだけでなく、何らかの仕方で正当化される必要があります。その正当化を説明するのが、「広い意味の推論的分節化」です。これについて、次のように説明しています。

「広い意味の推論的分節化とは、(一方ないし他方が非推論的であるとしても)状況と適用の帰結の間の関係を推論的なものとして含む。なぜなら、概念の適用において、一方が、状況から適用の帰結への推論の性質を保証するからである。」(同所)

これに対して、「狭い意味の推論的分節化とは、セラーズが「言語ー言語」動きと呼ぶもの、つまり命題的内容の間の関係に限定されている。」(同所)です。このような「超推論主義が尤もらしいのは、せいぜい抽象的な数学の概念のうちのあるものについて考えるときくらいである。」(同所)

もう一度言いますが、ブランダムは強い推論主義をとります。それは知覚と知覚報告の関係、および行為と発話の関係を、ともに「広い意味の推論的分節化」とみなすからです。

私は、『問答の言語哲学』では、ブランダムと同じく「強い推論主義」をとているつもりでいました。なぜなら、問答関係によって知覚報告は正当化されるのですが、しかし、問答関係は、ブランダムの理解では、「広い意味の推論的分節化」に属すると思われるからです。したがって、私の知覚報告の扱いは、推論主義と両立すると考えます。

 ただし、もし「推論」という語を「問答推論」にまで拡張して理解するならば、拙著での知覚報告の扱いは、この拡張された意味での「推論」に基づいて区別した「弱い推論主義」「強い推論主義」「超推論主義」のなかの「超推論主義」になると思います。

 

 このように考える時、本書の「問答主義」(問答推論主義)とブランダムの「推論主義」が両立するかしないかの分かれ目は、「問答推論」を「推論」を拡張したものだと考えるか、「推論」を拡張したものではなく、推論を異質な関係と結合したものだと考えるか、という違いになりそうです。(この二つの考えのどちらをとることも可能であり、どちらを採るかは有用性の問題である、と言えるのか、それとも、この考えのどちらをとるべきかについて客観的な基準があるのか。これについては、少し時間をください。)

 次回は、最後の指摘を取り上げます。

投稿者:

irieyukio

問答の哲学研究、ドイツ観念論研究、を専門にしています。 2019年3月に大阪大学を定年退職し、現在は名誉教授です。 香川県丸亀市生まれ、奈良市在住。

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