[カテゴリー:『問答の言語哲学』をめぐって]
ハーバーマスは『真理と正当化』(1999)の「第三章 カントからヘーゲルへ――ロバート・ブランダムの言語語用論」において、ブランダムを「概念実在論」と規定し、それを批判します。前々回、MIEとARには、「概念実在論」という語は使用されておらず、TMDでは論じられているので、ハーバーマスの「概念実在論」についての理解はTMDに基づくものだと勘違いし、前回TMDでの「概念実在論」を紹介しました。しかし、数日前に気づいたのですがTMDの出版は2002でした。大変失礼しました(正月ボケですね)。
ハーバーマスはこの第三章で、ブランダムのMIEでの立場を「概念的実在論」ないし「客観的観念論」として規定しているのですが、彼は、ブランダムのヘーゲル論から、この概念を取り出したのではないし、この章で、ブランダムのヘーゲルの理解を論じているわけではないようです。この章のタイトル「カントからヘーゲルへ」は、ブランダムの「概念実在論」が、カントよりもヘーゲルに近いものになることを示しているので、ブランダムのヘーゲル論に由来するものだと勘違いしたのです。
以下に紹介するハーバーマスのブランダムの「概念実在論」への批判に対して、Brandomは、2000年にRēplyを書いています。これについては次回に見ることにし、今回は、ハーバーマスのブランダム批判、概念実在論批判を確認します。
この章は、6つの節から成っており、前半の3つの節は、MIEのブランダムの議論のまとめです。ブランダムついて、論評するのは、後半の4、5、6節です。4節で、ブランダムの立場を「概念実在論(conceptual realism)」であると規定します。(この語は、歴史的には、中世の普遍論争における「実念論」に始まるようです。ハーバーマスは、先人への言及を何もしていないので、ハーバーマスはここでこの語をおそらく独自の用法として使おうとしているのだと思います。)
ハーバーマスは、4節でブランダムの立場について次のように言います。
「われわれが立ち向かっている世界をブランダムは唯名論的に理解する気は毛頭なく、むしろ――老パースと同じに――「実在論的に」捉える。「実在論的」という用語を、近代の認識論における実在論の意味ではなく、形而上学的な概念実在論の意味で使ってよければだが」(ハーバーマス『真理と正当化』三島憲一、大竹弘二、木前利秋、鈴木直訳、法政大学出版局、2016、199)
ここで言う「概念実在論」は、「形而上学的な概念実在論」です。それは唯名論と対比されているので、中世の「実念論」と全く無関係というのではないようです。それはまた、近代の認識論における実在論とも区別されています。それは形而上学的な主張であり、次のように説明されます。
「概念や推論の実質的ルールの客観性をブランダムは、それ自身として概念的に構造化された世界の内に根をもったものとみている」(同訳、198f)
ハーバマスは、ブランダムのMIEから次の箇所を引用してこの理解の正しさを示します。
「諸々の概念が推論的に分節化されているという考えは、思考はほぼ同じように、そして特定のケースでは同一に、概念的に分節化されているという、思考と世界についての見取り図を与えてくれる」(MIE622)
ブランダムは、「概念」が認識論的な概念でないことを、次の箇所で説明しています。
「表現の推論的役割りとして捉えられた概念は、認識論上の媒介手段、つまり、こうした概念によって構築されたものと、われわれの間にある中間の媒介物として役立っている、というように考えてはならない。部分的なものから成る因果的秩序、質料が思考に提供する相互関係などというものがないからそのようにいうのではない。むしろ、いっさいのこうした要素それ自身が完全に概念的なものとして捉えられているからである。概念的なものと対立するものとして捉えられているわけではない」(MIE622) 202
ハーバーマスは、これは認識論的な概念でないので「超越論的な言語観念論」ではなく「客観的観念論」であると見なして、次のように説明します。
「ブランダムはウィトゲンシュタインとは異なって、こうした表現を、超越論的な言語観念論の意味では考えない。つまり、「われわれの」言語の限界がわれわれの世界の限界であるというようには考えない。むしろ彼にとってより当然とおもえるのは、客観的言語観念論である。世界がそれから成り立っている諸々の事実は、基本的には、真なる命題で陳述可能なものとしてあるのだから、世界もそうした性質の存在である、つまり概念的な本性を持っている、ということになる。」(同訳、202f)
ハーバーマスは、「概念実在論」とか「客観的言語観念論」「客観的観念論」をほぼ同じ意味で用いています。ちなみに、彼はこの本の「第4章 脱超越論化の道」において、ヘーゲルが「客観的観念論」へ向かった経緯を論じている。
#ハーバーマスは、5節では、「概念実在論」に基づくコミュニケーション理解を批判します。
ハーバーマスによれば、「発信者から受信者への情報の伝達というコミュニケーション・モデルは間違っている。」210なぜなら、「話し手はただ正しく理解してもらいたいだけではない。それ以上に、誰かと〈p〉について了解し合いたいのだ。…なぜなら、語られた内容は、話し手と受け手の両者が共に〈p〉と信じてはじめて、それに続く相互行為の前提として相互行為に組み込まれていくからである。真理請求は、間主観的な承認をめざしてなされている。」210
ハーバーマスによれば、ブランダムも確かに「情報伝達モデル」とは異なる「スコア記録モデル」「ダンスモデル」を提示しているが、しかしこれらは「方法的個人主義」をとっている。そして、方法論的個人主義と概念実在論に立つならば、「真理と、真とみなすこととの区別をつけるのは、それぞれひとりひとりのディスクルス参加者のすることになり、正当化共同体が、ディスクルスによって合意を得るという目標を思考する必要がなくなる。なぜなら、内容の客観性は――ディスクルスによって展開され、分節化されるにすぎない――世界の概念的構成そのものによって保証されている(という前提に全員が立っている)からである。」(同訳、212)
ハーバーマスによれば、ブランダムはコミュニケーションを捉え損ねています。
#ハーバーマスは、6節では、ブランダムによる道徳の理解を批判します。
ブランダムの概念実在論では、「規範的命題は、記述的命題と同じように事実を、まさに規範的事実を描いている」(同訳、215)と考えます。
ブランダム曰く
「事実確認的な語りは、規範的な用語で説明される。そして、規範的事実は、事実のさまざまな種類の一つとして現れる。両者が、つまり事実確認と規範的事実が特定され説明される。共通の義務論的なスコア記録のための語彙は、規範的語彙と非-規範的語彙の区別に相応するのが、規範的事実と非-規範的事実の区別である。[…]このようにして、規範的なものは、事実的なものの副次的分野として特記される。」(MIE625) (同訳、215、ゴチは入江)
したがって、カントの道徳論と対立する。
「カントと異なってブランダムは、実践理性と理論理性を、合理的行動という同じ公約数に引き戻してしまっている。」(同訳、214)
しかし、ハーバーマスは、この二つを分けなければならないと考える。
「道徳的行為を正当化する理由は、事実に関する理由とは別の認識上の性質をもっている。まさに、道徳的な――しかしまた倫理的もしくは習慣的な――性質の実践的推論においてこそ、理由のカテゴリーに関しての不均衡が明らかとなる。」(同訳、220)
「行為の意図の正当化がブランダムの考えているように、確言的発話行為の理由づけのモデルで理解しうるということにはならない。」(同訳、220)
そして、ハーバーマスによれば、このような道徳理解は、ブランダムの他の主張とも不整合である。
「ブランダムも推奨する道徳の義務論的理解は、道徳的語彙の、彼が提案する概念実在論的な理解には適合しない。」221
「事実と規範の非連続性を均してしまうようなイメージには、カントの自律概念はそぐわない。」221
以上をハーバーマスのブランダム批判の紹介とします。ハーバーマスは、発話の遂行的機能を基本的なものとして重視しますが、これに対して、ブランダムは、「主張」を特別な基本的な発話行為として重視します。ハーバーマスからみると、ブランダムの「概念実在論」は、この「主張」という発話行為を重視すること結びついて、(5節と6節でみたような)問題を引き起こしているのです。(ハーバーマスと同じように、私もまた発話の遂行的機能を基本的なものと考えています。したがって、ブランダムがこの批判にどうReplyするのか、大変興味があります。)
そこで、このような批判に対する、ブランダムからのReply* を次に見たいとおもいます。(その後で、問答の観点から「概念実在論」の批判を述べます。)
*’Facts, Norms, and Normative Facts: A Reply to Habermas,’ European Journal of Philosphy 8:3 ISSN 0966-8373 , Blackwell Publishers Ltd. 2000.
https://www.academia.edu/Documents/in/Robert_Brandom にupされています)