70「問答関数」論への予想されるフレーゲからの反論(20220315)

[カテゴリー:問答の観点からの認識]

前に(59回で)説明した「問答関数」とは次のようなものでした。

ブランダムの「概念実在論」は、客観的事実(fact)ないし事態(state of affairs)が概念的に構造化(ないし分節化)されていると考えます。事実は確かに、それと両立不可能な他の事実がなければ、一定の規定性をもちません。またある事実は、それから帰結する他の事実がなければ、一定の規定性をもちえません。このような概念的構造(推論的関係)は、無限に多様な仕方で語ることができます。クワインがいうように言語や理論が異なる時、それらは互いに矛盾するかもしれません。そこで、事実そのものが概念構造(推論的関係)を持つのではないと考えた方がよさそうです。つまり、事実が、「これはリンゴである」あるいは「これはリンゴであり、ナシではない」という概念構造を持つのではなく、事実は「これはリンゴですか?」と問われたら「はい、これはリンゴです」という答えを返し、「これはナシですか?」と問われたら「いいえ、これはナシではありません」という答えを返す関数である、と考えた方がよさそうです。

 <事実とは、ある問いの入力に対して、ある答えを出力する関数である>と見なすことができます。そして、このように問いを入力として答えを出力とする関数を「問答関数」と呼ぶことにしました。

 事実をこのような「問答関数」とみなすことは、フレーゲの関数理解とは矛盾します。なぜなら、フレーゲによれば、関数とは、不飽和なものであり、完結したものである固有名と結合することによって、はじめて完結した意義と指示対象を持つのです。関数は、不飽和なものであり、それに結合する引数(入力)とその結合から結果する値(出力)は完結したものなのです。それに対して、問答関数において入力となる問いは、それ自体では真理値(また適切性)を持たない不飽和な表現だと考えられるからです。(ただし、出力となる文は、真理値(また適切性)をもつ完結したものです。)

また、フレーゲならば、事実を不飽和なもの(関数)とみなすことにも反対しそうです。

 フレーゲのこの反論は、関数を、完結したものを入力として必要とする不飽和なものという理解に基づいています。しかし、関数については、他の理解もありえます。例えば、ラッセルは関数を、1対多(1対1を含む)の関係として捉え、不飽和な表現とは考えません。

 フレーゲが、関数(述語)を不飽和なものとして理解したのは、完結した記号が並ぶだけでは、完結した記号を構成できないと考えたからです。完結した記号が集まって一つの完結した記号を作るには、接着剤が必要であり、それが不飽和な関数(述語)だと考えたのです。それに対して、私は<命題を統一するのは、問答関係である>と考えたいと思います。

 述語の基底的な部分が、フレーゲの言う意味で不飽和であるように見えます。しかし、それは問いを構成するために必要なのです。「フクロウは飛ぶ」を前提して「フクロウはいつ飛びますか」と問うために、必要なのです。この問いは「フクロウはいつ飛ぶことをしますか」といい換えられます。この言い換えによって「をしますか」という述語の基底的な部分を明示化できます。この基底的な部分は、「飛ぶこと」と結合しますが、また「夕方に」という返答と結合します。私たちは、ある文について、さらに様々な条件を問う子ことができますから、述語の基底的な部分は、あらかじめ決められた一定の項をもつ関数であるとはいません。問いと答えの関係が、答えを統一性を持つ完結した表現にするのです。答えとなる表現が、統一性を持つのは、それが問いに対する答えとして理解されることによってです。その意味では、命題の統一性は、それが問いの答えとして理解されることによってあり、命題の統一性は、問答の統一性に基づいています。(その意味で、問答こそが、言語的意味および言語行為の最小単位であると言えそうです。)

 ブランダムの「概念実在論」は、上記のクワインからの予想される反論に対して、おそらく、事実の概念的構造を常に修正に開かれているものとして主張すると思われます。概念実在論をそのように理解するとき、それは事実についての「問答関数」論と両立するかもしれません。

 この点を明らかにするために、ブランダムが、新フレーゲ主義について論じている点を確認しておきたいとおもいます。

投稿者:

irieyukio

問答の哲学研究、ドイツ観念論研究、を専門にしています。 2019年3月に大阪大学を定年退職し、現在は名誉教授です。 香川県丸亀市生まれ、奈良市在住。