15 「生存価値」の問答論的論証 (20220327)

[カテゴリー:哲学的人生論(問答推論主義から)]

前回曖昧でしたが、次の二つは異なります。

①人は生きている限り、何か価値のあることをし始める可能性をもつので、人が生きていることは価値がある。(この場合には、人が生きていることに価値があるのは、その人がすることに価値があるからです。この価値を「メタレベルの能力価値」と呼ぶことができます。)

②人が生きているだけで価値がある。(この場合には、人は、その人がすることに価値がある(何かの役に立つ)のでなくても、生きているだけで価値がある、という意味です。この価値が「生存価値」です。)

この①と②は異なります。人は自由であることによって、「メタレベルの能力価値」を持ちますが、また自由であることによって「生存価値」を持ちます。「自由であること」が「生存価値」であると言いたいのですが、それをどう説明したらよいでしょうか。

この説明のためには、「自由であること」を定義し、「人は自由である」と「自由であることは価値がある」を証明しなければなりません。ここで次のような問答論的な超越論的論証が可能であるかもしれません。

まず、「自由であること=問答ができること」と定義します。

次に、「人は自由である」を次のように証明します。「あなたは自由ですか」という問いに「いいえ自由ではありません」と答えることは、「あなたは問答できますか」と言う問いに「いいえ問答できません」と答えることが問答論的矛盾になるので、「はい私は問答できます」という答えが問答論的に必然的な答えになります。

次に、「自由であることは価値がありますか」という問いに「いいえ自由であることには価値はありません」と答えることは、「問答することに価値がありますか」という問いに「いいえ問答することに価値はありません」と答えることになります。ここで「人が行為するときには、その行為に価値があると見なしている」を仮定するならば、「いいえ問答することに価値はありません」は問答論的矛盾になるので、「はい問答することに価値があります」という答えが問答論的に必然的な答えになります。したがって、「自由であることは価値がありますか」という問いには、「はい自由であることには価値があります」と答えることが問答論的に必然的な答えになります。

ここで残る課題は、次の定義と仮定を証明することです。

定義「自由であること=問答ができること」

仮定「人が行為するときには、その行為に価値があると見なしている」