14 「生存価値」と「能力価値」 (20220325)

[カテゴリー:哲学的人生論(問答推論主義から)]

「すべての人は生きているだけで価値がある」と主張したいのですが、どうしたらそれを証明できるでしょうか。生きているだけで成立するこの価値を「生存価値」と呼ぶことにします。

 「人生の価値」は、ここにいう「生存価値」以外にもあるだろうと思います。たとえば、サッカー選手の人生は、サッカー少年にとっては価値があるでしょう。容姿端麗の人の人生は、面食いの人には価値があるでしょう。ある小説を書いた人の人生は、その小説に感動した人にとっては価値があるでしょう。これらの価値は、人がある性質を持っていたり、ある行為をしたために持つ価値であり、「生存価値」ではありません。このような価値を「能力価値」と呼びたいと思います。これは何かの目的のための手段としての価値です。したがって、そのような(性質や行為の)能力は、その目的を自分の人生の目的とする人にとって、価値を持つのです。

 前回述べたように、ある人の「人生の価値」は、常に誰かにとっての価値です。したがって、ある人の「生存価値」もまた、常に誰かにとっての「価値」です。しかしそのことは、ある人の「生存価値」が、全ての人にとって「価値」であることと矛盾しません。そして、全ての人が、全ての人にとって、「生存価値」を持つ、と言うこととも矛盾しません。私が主張したいこと「すべての人は生きているだけで価値がある」ということは、「全ての人が全ての人にとって生存価値を持つ」と言うことです。では、それをどう説明したらよいでしょうか。

 生きている人には、常に未来の可能性が開かれています。したがって、どんな人も、たとえ今まで何の能力価値も持たないとしても、つまりいままで価値の或る性質を持たず、価値の或る行為をしたことがなくても、将来そうなる可能性はあります。その意味では、全ての人は、生きている限り、何らかの能力価値をもつ可能性があります。その能力価値がどんなものになるか分からない以上は、全ての人は全ての人にとって価値がある可能性があります。したがって、どんな人も、その人が生きることは、全ての人にとって、価値がある可能性があります。

 この<何らかの能力価値を持つ可能性をもつ>という能力は、特定の内容を持たない抽象的な能力ですが、しかし具体的な能力を持つための不可欠な能力です。それは<自由である>ということではないないでしょうか。

 次に、この意味での<自由である>ということが、全ての人が持つ「生存価値」であるということを説明したいと思います。