[カテゴリー:哲学的人生論(問答推論主義から)]
(今回から数回にわたって、ウクライナの戦争犠牲者のことを思いつつ、「人は生きているだけで価値がある」ということを説明したいと思います。)
前に(10回)人生の意味と人生の目的を区別して、次のように理解することを提案しました。
「ある人の人生の意味」とは、「その人がしてきたことの上流推論と下流推論の総体」です。
従って、ある人の「人生の意味」について、その人自身が特権的にアクセスできるのではありません。
「ある人の人生の目的」とは、その人が「私は何のために生きるようか」とか「私はなにをしようか」と自問して、それに与える答えです。
従って、ある人の「人生の目的」については、その人自身が特権的にアクセスできます。
ある人の「人生の価値」とは、このような「人生の意味」「人生の目的」とは区別されるものです。あるものの価値とは、常に誰かにとっての価値です。したがって、「ある人の人生の価値」もまた、常に誰かにとっての価値です。例えば、Xさんの人生の価値は、Xさんに自身にとっての価値や、Xさんの子供にとっての価値や、Xさんの友人にとっての価値や、Xさんのライバル会社にとっての価値や、Xさんと無縁のある国Rのある人Pさんにとっての価値であったり、します。
従って、ある人の「人生の価値」は、その人自身が特権的にアクセスできるものではありません。この点で「人生の意味」と似ています。ただし、多くの人が理解するある人の「人生の意味」は多様であっても、それらを含めるしかたで、その人の「人生の意味」が成立するのに対して、ある人の「人生の価値」は、さまざまな人や組織にとって、それぞれ多様であり、しかも、それらの多様な「人生の価値」が合わさって、その人の最終的な「人生の価値」を構成するということもありません。
「Xさんの人生の価値」は、常に誰かにとってのものであり、その誰かが異なれば、それは異なるものなのです。
次に、このような「人生の価値」の理解から出発して、「人は生きているだけで価値がある」ということを説明したいと思います。