74 知覚は、探索に対する答えとして生じる。(20220604)

[カテゴリー:問答の観点からの認識]

ノエの知覚論(エナクティヴィズム)によれば、「知覚とは行為の仕方である」(ノエ『知覚の中の行為』門脇俊介、石原孝二監訳、春秋社、2010、p.1)

「知覚は、私たちに対して、あるいは私たちの中で生じる何かではない。知覚はわたしたちが行う何かなのである。杖を打ち付けて道を探りながら、物の散乱した空間を進む盲人のことを考えてみよう。彼は、触ることを通じてその空間を知覚しながら進む。一挙にではなく、時間をかけて熟達した探索と運動によって知覚する。こうしたやり方が、知覚するとは何かについての、私たちの範例である。」(同訳1

私は、ノエのこのenactivismに賛同します。

動物の「走性」は、外部刺激に対する反応です。走性を引き起こす外部刺激には方向性があり、刺激の方向に応じて、動物は、走光性、走流性、などの運動を行います。その場合、刺激の方向性を知るために、眼や耳のように二つの感覚器官を利用することがありますが、一つの感覚器官しかなくても、方向性が解らないときには、「屈曲走性」といって、体をいろいろな方向に曲げることによって感覚器官をいろいろな方向に向けることによって、刺激の方向性を知ろうとします。ウジ虫は、単眼が一個しかなく、体を左右にうごかすことによって、光がどちらの方向から来るかを感じて、暗い方向に向かって運動します。つまり、ウジ虫の感覚からして既に、感覚と運動は結合しており、どちらから光が来るかを知ることは、感覚器官と運動のコンビネーションによって成立しているのです。どちらから光が来るか、あるいはどちらが暗いかを知ろうとするのは、暗いところ、つまりより快適なところに移動しようとするためです。

刺激の方向性が解らないとき、もし不快な状態になったときには、動物はランダムに動き回ります。そして、たまたま快適な状態になれば、そこで運動をゆっくりにする、あるいは静止します。そうすることで、不快な場所にいる時間を短かくし、快適な場所にいる時間を長くするのです。これを「走性」と区別して「動性(kinesis)」というようです。動性も、走性と同様に刺激に対する反応ですが、走性とは異なり、刺激の方向性には無関係です。動性の場合の運動は、刺激の方向性とは無関係なのですが、しかし刺激の程度の感覚は生じているのです。例えば温度の感覚とか乾燥の感覚などです。そして、その感覚が、運動によって変化することを調べているのです。

走性の場合にも、動性の場合にも、運動と感覚は結合しており、その運動は快適な環境を求めて行われています。つまりその運動は快適な環境を求める探索行動なのです。探索行動には、感覚は不可欠です。感覚は、(行動を開始させ、行動を調節し、行動を停止させる、というように)行動の仕方を決定しているのですが、感覚運動の全体は、探索行動としてして捉えることができます。

ノエがいうように「知覚は、行動の仕方である」のですが、知覚+行動の全体は、探索行動であると同時に、それは探索の答えをえること(発見)でもあります。

(用語について。正直なところ、感覚と知覚をどう区別したらよいのか、今のところよくわかりません。感覚器官、感覚神経、感覚刺激など、「感覚」という語は生物学的なあるいは生理的な事実について用いることにします。心的な内容や現象については、「知覚」を使いたいとおもいます。これはまだまだ曖昧ですが、ここでのとりあえずの区別とします)。

 感覚運動と探索との関係を、探索と発見の関係、をもう少し考えたいと思います。

73 「心像的表象」と「概念的表象」の代理表示の違い (20220601)

[カテゴリー:問答の観点からの認識]

前回は、ドレツキが漢学的表象と概念的表象として分けていたものを、前者のみを表象飛び、後者を概念と呼ぶことを提案しました。しかし、その後いろいろな文献を見ると、「概念」を「表象」の一種とみなす議論が多いことが解りましたので、私も「概念」をもまた「表象」の一種とみなすことにします。つまり、「表象(representation)とは、対象の状態を別のものの状態で代理表象すること(ないし代理表象するもの)としますその上で、その代理表象が空間的時間的広がりと位置を持つ心像(イメージ)であるとき、それを「心像的表象」と呼ぶことにします。知覚はこれの代表的なものであり、知覚を表象として捉える時には、「知覚表象」と呼ぶことにします。他方で、その代理表象が空間的時間的広がりを位置を持たない概念的なものであるとき、これを「概念的表象」と呼ぶことにします

さて、前回最後に述べた疑問は次のようなものでした。

「知覚表象が、空間的時間的な広がりを持つイメージになるのは、4次元時空の世界の断片を表示するからである。つまり、表象のイメージという性格は、表象の代理表示という性格から生じていると考えられる。ところで、概念もまた代理表示機能を持つにも関わらず、それが空間的時間的広がりと位置を持たないのは、なぜなのか?」

今回は、これに答えたいとおもいます。

「これはリンゴです」という命題は、事実を代理表示していますが、空間的時間的な広がりと位置をもつ表象ではありません。知覚表象は、空間的時間的関係の一部を保存し、表示しますが、それに対して、概念的な代理表示は、空間的時間的関係を表示するのではありません。では、それは何を表示するのでしょうか。

 概念は、他の概念との関係において成立します。その関係は空間的時間的関係ではありません。それは、両立可能/両立不可能の関係(pとrが共に成立することが可能である/pとqが共に成立することは不可能である)であり、論理的帰結の関係(pが成立するならば、rが成立する)です。論理結合子で表現すると、次のようになります。

  p≡r (同値)

  p→r (伴立)

  ◇(p∧r)  (両立可能)

  ¬◇(p∧r) (両立不可能)

論理的関係とは、文や語の意味に関する関係です。ブランダムの推論的意味論によるならば、論理的関係は、文の意味に基づく関係なのではなく、逆に、文の意味が論理的関係に基づくものです。文の論理的関係とは、例えば次のようなものです。「これはリンゴである」は「これはナシである」や「これはオレンジである」などとは両立不可能です。他方「これはリンゴである」は「これは赤い」「これは果物である」などと両立可能です。また、「これはリンゴである」から「これは果物である」や「これは食べ物である」が帰結します。したがって、「これはリンゴである」が、世界について何かを表示するとすれば、これらの推論関係が成り立つことを表示しています。

では、文が世界について何かを表示するのはどのような場合でしょうか。ある文が世界について何かを表示するのは、それが問いに対する答えとなるときです。たとえば「これは何ですか」という問いに対する答えとして「これはリンゴである」が成り立つとき、この文は世界について、上記のような推論関係が成り立つことを表示します。

(わたしは、ここで、文が世界について何かを表示するのは、「それが問いに対する答えとなるときです」とのべ、「それが問いに対する答えとして発話されるときです」とは述べませんでした。その理由は、問答関係は、推論関係と同様に論理的な関係であり、私たちがそれを考えていなくても成立する、ということです。たほうで、私は、論理学について古典論理ではなく、直観主義論理を採用したいと考えているのですが、そのことが、このことどう関係するかは、別途取り上げることにします。)

以上が「概念的表象」が何を表示するかの説明です。

冒頭の問題に戻りましょう。

「心像的表象」も「概念的表象」も同じように世界の代理表示でありながら、知覚表象と概念のこのような違い(それぞれの「代理表示」のあり方の違い)は、何処から生じるのでしょうか。この違いは、(広義の)問いの違いに由来すると答えたいとおもいます。

この二種類の表象が、世界について代理表示するのは、それが(広義の)問いに対する答えとなる時です。知覚表象が世界のあり方を表示するものとなるのは、探索に対する答えとして発見されるときです。文が世界に対の表示となるのは、上にも述べたように、問いに対する答えとなる時です。これらの探索や問いがすでに、どのようなものが答えとなるかを規定しているのです。

次に、知覚が、(言語以前のものも含めて)探索に対する答え(発見)として生じること、その探索がすでに知覚的な表象を求めていることを、より詳しく解明したいと思います。