09 理性の公的使用と私的使用の区別の問題点 (20220624)

[カテゴリー:平和のために]

カントが考えていた「理性」の「公的使用」と「私的使用」の区別を、次のように考えたいとおもいます。

理性は推論の能力であり、「私的使用」とは、状況を記述する事実命題と、価値や規範を表現する経験的な価値命題(世界を記述する個人や集団や共同体の利害、職務や集団や共同体の規範)と普遍的に妥当するアプリオリな価値命題、を前提として推論することでだといえるでしょう。これにたいして、公的使用は、状況を記述する事実命題と、普遍的に妥当するアプリオリな規範(カントでは道徳と法)だけを前提として推論することだと言えるでしょう。

このように考える時、二つの理性使用(推論)は、事実命題に関しては同じものを受け入れています。これらは、カントならば、アプリオリな分析判断と綜合判断、アポステリオリ(経験的)な総合判断なに区別するでしょう。二つの理性使用(推論)が異なるのは、価値や規範に関する命題です。価値や規範に関わる命題に関しては、理性の公的使用は、アプリオリな分析判断と綜合判断だけを前提としてみとめますが、理性の私的使用は、これに加えてアポステリオリな総合判断も認めます。カントは、このようにめいじしているわけではありませんが、このような区別になるだろう思います。

このように理解するとき、理性の公的使用と私的使用の区別は、3つの区別(すなわち、事実判断と価値判断の区別、アプリオリな判断とアポステリオリな判断の区別、分析判断と綜合判断の区別)を前提としています。ところが、この3つの区別は、現代哲学では、批判されることが多いものです。したがって、理性の公的使用と私的使用の区別をもちいて、戦争を防ごうとするのならば、これらの区別を再考して、その再定義を与えることが必要になります。