04 問いと答えの組み合わせが真であることと規則遵守問題 (20220804)

[カテゴリー:問答の観点からの真理]

(ブランダムの読書会で担当が当たっていたことと、4回目のワクチンのあと体調を崩したことなどが続いてしばらく更新できずに失礼しました。この間少しデイヴィドソンを読みはじめました。)

命題ではなく問答が真理値を持つと主張しましたが、問答が成り立つためには問いが成立しなければならないので、「問いが成立するとはどういうことかを考えたい」と前回述べました。この問いに取り組む前に、足場固めのために、「問いと答えの組み合わせが真であるとはどういうことか」についてもう少し考えておきたいと思います。

 前回の説明は次のようなことでした。

例えばQ「これはリンゴですか?」という問いにA「はい、それはリンゴです」と答える時、その答えが真であるとは、誰に問うても、何度問うてもそう答える場合(あるいは、誰に問うても、何度問うてもそう答えるだろうと考える場合、あるいは、誰に問うても、何度問うてもそう答えるべきだと考える場合)です。問いに対するある答えが真であるとは、問いに対して<そう答えるべきだ>ということです。例えば、問いQを問うことは義務ではありませんが、その問いを問われたならば、<Aを答えることが義務になる>ということです。この意味で問答は、規範性を持ちます。

今回は、デイヴィドソンの議論を参考にして、問答の真理性と規範性の関係をもう少し解明したいと思います。デイヴィドソンは論文「言語の社会的側面」(1994)(ドナルド・デイヴィドソン著『真理・言語・歴史』柏端達也。立花幸司、荒磯敏文、尾形まり花、成瀬尚志訳、春秋社、2010)で、次のように述べています。

「たとえば、私が自分の鼻を指さすたびに、あなたが「鼻」と言う場合を考えてみよう。その場合、あなたの理解は正しいし、しかもあなたはそれを以前と同じように続けている。だがなぜ、あなたの言語的応答が「同じ」である――すなわち重要な点で類似している――と見なされるのだろうか。」197

ここで「私が自分の鼻を指さす」ことは、「私が自分の鼻を指さして、「これは何ですか」と問う」ことを意味しているのでしょう。そしてこれを行うたびに、相手が「鼻」と答えるのです。「その場合、あなたの理解は正しいし、しかもあなたはそれを以前と同じように続けている。」

ここに、前回私が述べた「問いと答えの組み合わせが真である」ことが成立しています。つまり、「これは何ですか」という問いに、「鼻です」と答えるとき、この問答関係が真であるのは、誰に問うても、何度問うてもそう答える場合であり、それがここに成立しているのです。しかし、どうしてそのように言えるのでしょうか。ここでのデイヴィドソンの次の問いかけは、この問いと同じものです。

「だがなぜ、あなたの言語的応答が「同じ」である――すなわち重要な点で類似している――と見なされるのだろうか。」197

この後、それにデイヴィドソンの答えが続きます。

「それはきっと、それぞれの事例における刺激を同じものと私が見なし、そしてそれに対する反応も同じであるとみなしているからであろう。あなたもまた、私のそれぞれの指差しを、何らかの原始的な意味で、同じものと見なしているに違いない。その証拠はあなたの反応の類似性である。」197

つまり、同じ問いに同じ答えを返すことを繰り返していると理解することは、問う者と答える者が、互いに相手の発話や反応を同じものと見なしているからである。相手の反応を同じものと見なしていることの証拠は、それに対する他方の側の反応の類似性であると、デイヴィドソンは言います。

彼は、続けてつぎのように問います。

「しかしながら、あなたの反応が重要な点で類似しているかどうかをあなた自身に教えるようなものはここでは現れることがない。刺激がどのようなものであれ、あなたの応答の類似性は、あなたが当の状況において類似する何かを見てとったということを示すであろう。逆にもしあなたが同じ諸刺激に対して明白に異なるような反応をしたなら、それはあなたがその刺激を異なるものとみなしたということをしめしていると解することができるし、あるいはそれと同等に、あなたにとってそれらが類似の反応であるということを示していると解することもできる。」

私は<問答が真であるためには、それを反復することが可能であり、また同じ問いに同じように答えることが責務であらねばならならない>と述べましたが、これを主張するには、同じ問答を反復するということが成立しなければなりません。そのためには、実際に同じ問答を反復することと、ただ同じ問答を反復していると信じていること、を区別できなければなりません。しかし、この区別は、一人ではできません。

デイヴィドソンは、上記に続けて次のように述べます。

「ウィトゲンシュタインがいうように、あなた一人では、状況がおなじものに見えるということと、状況が同じであるということとを、区別することができないのだ。(多くの論者の見解によれば、ウィトゲンシュタインは、この論点は刺激が私秘的であるときにのみ適用できると考えたということだが、私は、この論点がすべての刺激のケースに対して当てはまると考える)」198

デイヴィドソンは、しかし二人いれば、反応が同じであることと、同じように見えることの区別ができるようになることを、次のように説明します。

「ところがもし、私とあなたが、共有する刺激の出現を相手の反応にたがいに相関させられるなら、まったく新しい要素が導入されることになる。そしてひとたびそのような相関が確立されれば、相関に失敗したケースを区別する根拠が、われわれの双方に与えられる。自然的帰結の失敗はいまや、正しく理解することと誤って理解することとの違い、以前と同じように続けているのかそれとも逸脱しているのかの違いをあらわにするものとして、受け取ることができる。」198

これをもう少しわかりやすく書き直せば次のようになります。

「私とあなたが、共有する刺激の出現を相手の反応にたがいに相関させられるなら」つまり、「ひとたびそのような相関が確立されれば」、一方は相関が続いていると考えているが、相手は相関が破られたと考えるということは生じうる。つまり「正しく理解することと誤って理解することとの違い、以前と同じように続けているのかそれとも逸脱しているのかの違い」が可能になる。

仮に私が同じように鼻を指さしたのに、相手が「眉間」といったとします。相手は、私が鼻を指さしたのに、もう少し上のほうを指さしたと見間違えたのかもしれません。あるいは、私が指さしたところは、鼻ではなく正確に言えば眉間だと考えたのかもしれません。あるいは、私は同じように鼻を指さしていたつもりだったのですが、私が考えるよりも上の方を指さしていたのかもしれません。私が考える眉間は、ほかの人が眉間と考える部分よりも狭すぎるのかもしれません。あるいは、しては、「眉間?」(「眉間を刺したの?」)と問うたのに、私は「眉間」(「眉間だ」)という主張だと聞き間違えたのかもしれません。このように二人いれば、反応が同じであることと、同じように見えることの区別ができるようになります。

私的言語の問題、つまり<規則に従うことと、規則に従っていると信じることの区別は、一人ではできない>という問題があるので、規則が成り立つには二人以上が必要である、あるいは「社会的相互作用に言及することが必要だ」(197)ということをデイヴィドソンも認めます。もしそれだけなら、それはありふれた議論です。「しかし、その必要性がどのように満たされるのかという点において、私は彼ら[ダメットやクリプキやウィトゲンシュタイン]と一致しない」といいます。

では、上記の彼の議論の新味はどこにあるのでしょうか。それは、命題ではなく問答が真理値を持つという私たちの提案とどう関係するでしょうか。