47 デイヴィドソンの第二の問題:行為の説明の問題 (20220830)

[カテゴリー:問答推論主義へ向けて]

デイヴィドソンが挙げている第二の問題は、行為の説明の問題です。

意図的な行為は、「なぜそうするの」という問いへの答え(行為の理由)によって説明されます。行為を説明するとは、行為を合理化することであり、行為の理由が行為を合理化します。

「行為の理由は以下の意味で行為を合理化する。すなわち、それらの理由に照らせば、その行為が他の人々にも理解可能になるという意味で。「理由は、行為者が自身の行為のなかに何を見ているか、行為者の目的や狙いが何であるかを、明らかにしてくれる。」(「感情についてのスピノザの因果説」(柏端達也訳、459)

デイヴィドソンは、「行為の理由」を二種類に分けます。

「理由には二つの主要なカテゴリーがある。認知的なもの(cognitive)と、動能的なもの(conative)の二つである。後者[動能的なもの]は、行為者にとっての価値や目的、到達点であり、問いの行為を行為者から見て実行する価値のあるものにする目標のことである。他方、前者[認知的なもの]は、行為者の信念であり、行為者が目標に置いている価値から、手段、すなわち終極的には、それによって目標が達成されると行為者が考えているところの行為へと移行するよう行為者に促す信念である。」(同訳、459)

この二種類の理由は、「なぜ、そうするのか」という問いに対する二種類の答え方になっています。

「動能的理由」とは、「なぜそうするのか」に行為の目標で答えたものです。「認知的理由」とは、「なぜそうするのか」にその行為(の事前意図)を結論とする実践的三段論法で答えたものです。この実践的三段論法の大前提には、行為の意図ないし目標設定が述べられているので、能動的理由と認知的理由は、密接に結合しています。一方だけでは、行為を合理化するには不十分です。

以上の分析を踏まえて、デイヴィドソンは、「なぜそうするのか」という問いへの答え(行為の理由)による行為の説明(合理化)には、二つの問題があることを指摘します。

「ところが、ある個別的な理由に基づいて行為することを、「行為者の信念と価値によって合理化される仕方で行為すること」と単純に定義することはできない。というのも、人は、自分の信念と価値のいくつかに照らせば合理的であるような仕方で行為しつつも、しかしまったく別の理由のために、その行為をなすことがあるからである。」(同訳、459)

これについて、デイヴィドソンは次の例を挙げています。

「私はある一人の老人を助けることを欲するかもしれない。しかも私は、その老人に傘を直してもらい修理代を払うことによってその老人を助けられるだろうと信じるかもしれない。」((同訳、459)

ここでは次の実践的三段論法が行われています。

「老人を助けたい」「老人に傘を直してもらって、修理代をはらえば、老人を助けられる」┣「老人に傘を直してもらおう」

「にもかかわらず、それらの理由は、私が傘を彼に修理してもらい代金を支払ったことと無関係でありうる。というのも、私はただ、自分の傘を直したかっただけかもしれないからだ。」

この場合には次の実践的三段論法が行われています。

「傘を直したい」「老人に修理代をはらって傘を直してもらえば、傘を直せる」┣老人に修理代を払って傘を直してもらおう」

この例が示すのは、「老人を助けたい」が行為の理由であると考えるためには、単に「行為の理由」を述べるだけでは不十分であるということです。そこで、デイヴィドソンは次のように言います。

「明らかにわれわれは、理由に基づく行為の分析に、さらなる何かを加えなければならない。つまり、行為を実行するための理由になるものが、行為者による当の実行を説明する理由でもあることを、保証しなければならない。それに対しさしあたり私が正しいと信じる一つの提案は、「理由は、行為を引き起こしたときにかぎり、その行為を説明する」と述べることである」(同訳460)

しかし、「老人を助けたい」という目的と「傘を直したい」という目的のどちらが、行為を引き起こしているのかを、どうやって確認したらよいでしょうか。これが、私が理解する、デイヴィドソンが挙げている行為の説明の問題の一つ目です。これは、行為の動能的理由の特定が困難であるという問題です。

デイヴィドソンはこの特定ができても、別の困難があるといいます。

「とはいえそれではまだ十分条件にならない。なぜなら因果は逸脱した仕方で働きうるからである。いやしくも理由が、行為において行為者がもつ理由たりうるならば、その理由はまさに正しい仕方で当の行為を引き起こすのでなければならない。だが私は、どのようにすれば反例を免れる仕方で諸条件を構成できるのか分からないし、そもそもそのようなことが可能だとも思っていない。」460

この「逸脱」した因果の例について、訳注2で柏端さんは、デイヴィドソンの他の論文‘Freedom to Act’から、逸脱因果の例をふたつ示しています。一つは、ある人Aが別の人Bをライフルで殺そうと意図して、引き金を引いたが、打ち損じてしまし、その銃声に驚いたイノシシの群れが暴走してBを踏み殺した、という例です。もう一つは、仲間のつかまるロープを握っている登山家が、そのロープの重みから解放されたいと思い、ロープを持つ手を緩めれば重みから解放されると考えた瞬間、そのおそろしい考えに狼狽し、手の力が抜けてロープを放してしまう、という例です。

この逸脱因果の例は、「認知的理由」の適切性の条件を定式化する困難を示しています。

「私は、どのようにすれば反例を免れる仕方で諸条件を構成できるのか分からないし、そもそもそのようなことが可能だとも思っていない。」(同訳、460)

行為の合理性の説明に関するこの二つの困難を、問答の観点から考察するとどうなるかを次に論じたいと思います。