45 デイヴィドソンが指摘した3つの問題を問答推論主義で解決する試み (20220819

[カテゴリー:問答推論主義へ向けて]

(このカテゴリーでのこれまでの議論の内容ついては、このカテゴリーの説明文をご覧ください。左のカテゴリーの一覧からこのカテゴリーをクリックすれば、冒頭に説明文が出てきます。今回からしばらくは、デイヴィドソンが指摘している3つの問題を、問答推論主義の立場から解決することを試みたいと思います。)

ドナルド・デイヴィドソンは、論文「感情についてのスピノザの因果説」(柏端達也訳)(原文1993)(デイヴィドソン『真理・言語・歴史』柏端達也、立花幸司、荒磯敏文、尾形まり花、成瀬尚志訳、春秋社、2010)の冒頭で、知覚と記憶と行為と推論の説明が類似した困難に出会うことを指摘します(この論文は、スピノザがこれらの問題に取りくんで「劇的な解釈」を提案したということを主張するものですが、それについては後で触れることにします)。ここでは、デイヴィドソンが挙げているこれらの問題を、問答推論主義の立場から解決できるということを提案したいのです。

まずは、知覚に関する問題を説明します。

「月が出ているのをだれかが見ているとするならば、まず月が出ていることは真でなければならない。そして知覚者は、月が出ていると信じるに至っているはずである。さらに、月が出ているというその信念は、月が出ていることに引き起こされたにちがいない。」(同訳、458)

この主張は、「知覚の因果説」および「知識の因果説」(この二つは厳密には別のことである)であるが、しかしこれらは知識の必要条件であって、十分条件ではない。「なぜなら、実際に月が出ていることは、月が出ているという信念を、月が出ていることの知覚と見なしえない仕方で、引き起こすかもしれないからである。」(同訳458)例えば、「月が出ていることは、一匹のコヨーテの咆哮を引き起こすかもしれない。さらにある人は、コヨーテとは、月が出ているときにつねに、そしてその時にかぎって吠えるものだと誤って信じているかもしれない。その場合、月が出ていることは、月が出ているという信念を、主体のなかに引き起こすだろう。しかしそのとき主体は、事実月が出ていることを知覚してはいない。」(同訳458)

知識の因果説へのこのような反例は「逸脱因果」の事例と言われている。これらの反例を除外するために、条件を付けることはできるかもしれないが、「反例が生じないほどの厳格さで、そうした諸条件を述べることは、非常に困難――私の考えでは不可能――である。」(同訳459)

これが知覚ないし知覚報告の説明に関して、デイヴィドソンが挙げている問題です。この問題は、真なる知覚報告の定義の問題、知識の定義の問題です。次に、この問題に問答推論主義の立場から答えたいと思います。