05 共有された言語がないと、どうなるのだろうか (20220805)

[カテゴリー:問答の観点からの真理]

<規則に従うこと>と<規則に従っていると信じること>を区別するには、一人ではなく、二人以上が必要である、つまり社会的相互作用が必要である、と考えるだけなら、ありふれた議論です。

ダメットやクリプキを含めて、多くの場合は、この区別を行うときに共有された言語が必要だと考えますが、デイヴィドソンのユニークなところは、共有された言語は不必要だと考えることです。

#デイヴィドソンのいうように共有された言語がないとするとどうなるのでしょうか。

私たちはコミュニケーションできています。言語的コミュニケーションが、共通のルールから説明できるとするのが、コードモデルです。それに対して、共有された言語コードも用いるが、推論で説明するのが、(関連性理論の)推論モデルです。それに対して、デイヴィドソンは、コードを共有している必要はないと考えます。それぞれの反応に規則性があれば、その規則性が同じ規則によものでなくてもよいと考えます(おそらくブランダムも同じように考えます)。

他者との問答において、問いQにAと答えることを反復するとき、二人の間に安定的な問答関係が出来上がります。例えば、「これは何?」「それはリンゴ」という問答が反復されるとき、その問答は真です。

ところが、同じ対象に「これは何?」と問い、「それはナシ」という答えが返されたとき、それまでの規則性が破られます。この場合、次のことが起こっているかもしれません。返答者には、別の対象を指示しているように見えたとか、同じ対象が別のように見えたとか、「リンゴ」と「ナシ」がその人にとって共指示表現であったとか、かもしれません。あるいは、質問者は同じ対象を指示しているつもりだったけれど間違って別の対象を指示していたとか、「ナシ?」という質問が「ナシ」という断言に聞こえたとか、あるいは「ナシ」ではなく別の語を語ったとか、かもしれません。さらに考えてみると、このように規則性の破れ、齟齬が生じないときにも、たまたま逸脱が重なってうまく行っていただけかもしれません。以上から言えることは、言語を共有していることを確認することはできない、ということです(それ故にこそ、クワス問題が生じるのです)。私たちにできるのは、言語を共有することではなく、互いに相手の言語的反応を予想できるということです。

言語的反応を予想するとは、問いに対する答えを予想することです。相手の発話pを真だとみなしているとは、それを自分の問いQに対する答えとして発話されるべきだと考えているということです。つまり、厳密に言うならば、発話pが真なのではなく、Qとpの問答関係が真だといえます。なぜなら、発話pの意味は、相関質問が変われば変わるからです。問われた者は、相手の問いQをQ’として理解し、Q’に対する答えpを発話します。問う者は、相手の答えpをp’として理解し、Qに対する答えp’という問答関係を理解します。

ここでは各人が互いに異なる個人言語で問答しているのです。コミュニケーションが成立するには、一つの言語を共有しなくても、これだけで十分なのです。そのとき、各人が自分の個人言語の規則に従っており、単に規則に従っていると信じているだけではないことは、上記のような仕方で行われる他者との問答が順調に進むことで確認できるのです。

共有された言語がなくても、コミュニケーションを説明できそうですが、このことは、問答関係の性質として真理をとらえることとどう関係するのか、次に考えたいと思います。