[カテゴリー:問答の観点からの認識]
「真理の定義依拠説」を主張したいので、そのために、これが「問答推論的意味論」(発話の意味は、その上流問答推論関係および加入問答推論関係として成立するという主張)と結びついていることを示したいと思います。そのために、セラーズとブランダムが展開した「実質推論」についての議論を問答の観点からとらえ直したいと思います。
「実質推論」とは、それが含む語や文の意味や真理性から妥当なものと見なされる推論(これは通常の推論であり、「形式推論」と呼ばれています)ではなく、その推論によって、それに含まれる語や文の意味が与えられる推論です。
実質推論を認めることは、意味の全体論ととることであり、意味の原子論に反対することになります。しかし、意味の原子論はダイハードであり、私たちは、言語表現の意味についてついつい原子論的に考えてしまう傾向があります。では意味の原子論は、なぜこれほど強固なのでしょうか。それを考えてみたいと思います。
#意味の原子論はなぜ強固なのか? 構文論的原子論
意味の原子論は、<文字を並べて語を作り、語を並べて文を作り、文を並べて理論を作る>ということに由来します。私たちは、理論を分割して文を作るのではないし、文を分割して語を作るのではないし、語を分割して文字を作るのではありません。同じことは話し言葉でもいえます。音を並べて語の音声を作り、語の音声を並べて文の音声を作り、文の音声を並べて理論の音声を作ります。この逆ではありません。したがって、音や文字についていえば、言語の原子論は正しいのです。これを「構文論的原子論」と呼びたいとおもいます。
ただし、このことと、言語の「意味論的全体論」とは、両立可能です。この「構文論的原子論」と「意味論的全体論」を明確に区別しないことによって、上記の「構文論的原子論」から、「意味論的原子論」を誤って支持してしまうことになっているのではないでしょうか。
私たちは例えば次のように意味の原子論を批判できます。
#意味の原子論への批判
・意味の原子論への批判1:「sunburn」には、sunの意味もburnの意味も含まれていません。「茶色の牛」は危険な牛と言う意味をもつらしいが、「茶色」にも「牛」にも危険という意味はありません。つまり、表現の意味は、要素の意味から合成できない場合があるのです。
・批判2:語の使用は(一語文を含めて)文によって行われる。語の意味は定義文によって行われます。また語の意味の説明は文によって行われます。ゆえに、語の意味は文の意味に依存しているのです。したがって、文の意味は語の意味から構成されるのではありませんし、少なくとも文の意味は語の意味から構成されない場合があるのです。
・批判3:文の意味は、文の使用法に尽くされています。そして文は、問答や推論において使用されます。問答と推論が問答推論として統一的に理解できるのならば、文の意味(使用法)は問答推論関係です。
・批判4:解釈学的循環として指摘されるように、文の意味は、それを含む文章全体に依存します。
それでもなお、意味の原子論は強固に生き続けています。それはなぜでしょうか。それは概念や命題などの言語的な意味は、常に語や文に付帯しているからです。語や文が原子論的ならば、それに付帯する意味もまた原子論的であると考えてしまうのではないでしょうか。
そこで、語(概念の依り代)と概念(語の意味)の結合関係、文(命題の依り代)と命題(文の意味)の結合関係について、次に考えたいと思います。