121 認識についての全体的見通し(Overall Perspective on Cognition) (20240531)

[カテゴリー:問答の観点からの認識]

カントは、直観の形式(時間、空間)と悟性の形式(4綱12目のカテゴリー)の結合によって認識を説明しました。これと似ているのですが、私は、問答の形式と問答の内容の結合によって認識を説明できるだろうと考えます。

(1)問答形式は、論理法則ないし推論規則を含んでいます。それゆえに、何かについての問答するとき、その答えは、論理法則や推論規則に従ったものになります。論理法則や推論規則は、問答関係の中に暗黙的に含まれているのです。

(2)問答の内容は、語の定義によって与えられます。定義には真理値はありませんが、定義のあとで、同じ発話を反復すると、それは事実についての真なる記述になります。問に対する答えの原初的なものである知覚報告の真理性は、観察語の定義に依拠すると考えられます。知覚報告のための観察語の意味(使用法)は定義宣言によって設定され、いったん定義が成立した後では、その定義を反復することが、事実についての真なる主張ないし記述となるのです。

(3)観察報告と経験法則の区別について。経験法則は、<観察報告を集めて、経験法則を想定し、それから観察報告を予測する>ために作られます。ただし、「これは赤い」という観察報告も、それが反復可能なものであるならば、法則的なものだと言えます。観察報告と経験法則の区別は、曖昧で相対的であり、文脈に依存します。これらの観察報告や経験法則は、いずれも「Xは、どうなっているのか」という形式の問いに対する答えとして成立します。

(4)理論とは、観察報告や経験法則についての「なぜこうなるのか」という問いに答えるものです。

理論(理論的命題、理論法則、理論体系)が正しいとは、経験法則を説明できる、ということです。ある経験法則を説明するために、理論を作るのですから、理論は最初からその経験法則との結びつきを持っています。つまり理論は最初から対応規則を持っており、理論の構成は、対応規則の構成から始まる、ということです。

 そして、理論語を用いた記述1から記述2への推論が可能であるとき、そして、記述1を観察報告に翻訳した観察報告1から記述2を翻訳した観察報告2への移行が経験法則によって説明できるとき、理論は、「なぜこうなるのか」という問いに答えるものだと言えるでしょう。これによって、理論は正当化されます。

 このように認識が問答形式と問答内容によって成立するとき、その説明は同時に、原子論的意味論ではなく、問答推論的意味論が正しいという説明になるでしょう。

 さて、次回から不完全性定理がこのような考察に与える影響を考えたいと思います。

120 理論法則は、対応規則を必要とする(Theoretical laws require correspondence rules) (20240525)

[カテゴリー:問答の観点からの認識]

観察語は、観察可能なものを表示しますが、公理化された特定科学でもちいる理論語は「観察不可能なもの」を表示し、その理論語の意味(使用法)は、特定科学の公理と推論規則によって記述されていると考えることができます。この理論体系に登場する理論文は、個別対象についての記述ではなく普遍性を持つ命題であり、(法則のように見えない文も含めて)法則です。このような理論文が世界について真であるためには、観察語や観察文と何らかの仕方で結合する必要があります。その結合関係を表現する規則を、カルナップは、「対応規則」と名付けました。

カルナップの挙げている対応規則の例には、次のものがあります。

「ある特定の周波数の電磁振動があるとすれば、一定の色合いの可視的な緑がかった青色がある」(『物理学の哲学的基礎』訳240

「気体の温度(温度計で測定され、それゆえに、さきに説明した広義の観察可能なものである)は、気体の分子の平均的運動エネルギーに比例する」(同訳240) 

このような対応規則は、規約として定義宣言されるものであり、真理値を持ちません。ただし、いったん定義宣言された後は、それが基準となるので、それは常に真となります。ただし、この対応規則は、理論法則や他の対応規則や観察文と両立不可能になることがありえます。その場合には、どれかの文を修正しなければならず、対応規則が修正されることになるかもしれません。

 カルナップは、対応規則はこのように修正可能であるがゆえに、観察語による理論語の定義だとは言えないと言います。対応規則は、必然的に修正の可能性をもつのです。しかし、どんな定義も変更の可能性をもつと考えるならば、対応規則を観察語による理論語の定義だと考えてもよいともいえそうです。この場合、このような定義によって理論の経験法則への依存関係を明示化できます。

 これに対して、カルナップは、対応規則を、観察語による理論語の定義だとは考えないのですが、対応規則が定義ではないとすれば、それは何なのでしょうか。この場合、対応規則は修正の可能性があり、理論法則や経験法則よりも、変化しやすいものだと考えています。理論を経験によるテストにかけて、修正の必要が生じた時、私たちは、理論の核心部分からではなく周辺部分から変更します。理論をできるだけ保存しようとするなら、修正の順序は、知覚、知覚報告(観察文)、経験法則、対応規則、理論法則、となるでしょう。このように、対応規則を<理論法則よりも変化しやすいもの>として考えるならば、理論語を対応規則によって定義するということはあり得ません。なぜなら、もしそのように定義するならば、対応規則が変わるときには、理論法則もまた変化することになり、対応規則が<理論法則よりも変化しやすい>ということはなくなるからです。

 対応規則を、観察語による理論語の定義と考えるか考えないかの違いは、<対応規則は理論法則と同じようにできるだけ変更せず維持すべきもの>と考えるか、<対抗規則は理論法則を維持するためには変更すべきもの>と考えるかの違いです。このように考えると、後者の方が現実的かもしれません。

 (後者を取るカルナップは科学の「道具主義」よりも、理論語の対象が存在すると考える「科学的実在論」を採用します(カルナップ『物理学の哲学的基礎』同訳262)。後者は、前者よりも、科学的実在論に親和的なのだろうと思います。)

 

 物理学者は、論理学と数学の公理系を前提として、そこに理論法則を公理として加えることによって物理学の理論の公理系をつくります。理論語や理論文の意味(使用法)は、その公理系によって示されます。この場合、理論語の意味は、公理系の中で与えられるので、推論的意味論で説明できますが、原子論的意味論ではうまく説明できないでしょう。

 科学理論が経験法則や観察文と関係を持つためには、対応規則が必要であり、理論から一定の経験法則や観察文を予測することができます。これが現実の観察文と一定することによって、理論は真であるとみなされます。この場合、理論語は対応規則によって定義されると考えることもできます。この場合、対応規則で用いられる観察語の意味は、予め定義や学習によって与えられていますが、その定義や学習は、<問答によって>あるいは<問答として>成立します。この場合、理論語の意味(使用法)もまた、<問答によって>あるいは<問答として>成立すると言えます。つまり原子論的意味ではなく、関係主義的意味論、問答推論的意味論の方が正しいように見えます。

 第92回から、問いに対する答えが正しいとはどういうことか、を論じてきました。答の正しさは、語の意味(使用法)を設定した定義に基づくと考えました。それを「真理の定義依拠説」と名付けました。112回から、それに対する反論を検討してきました。話が複雑になってきているので、次回は。これまでの議論を踏まえて、「問いに対する答えが正しいとはどういうことか」という問いに対する現時点の答えの全体構想を説明したいと思います。

119 再説:特定科学の公理体系は、観察文とどう関係するのか (Restatement: How does the axiom system of a specific science relate to observation statements?) (20240520)

[カテゴリー:問答の観点からの認識]

前々回に次のように書きました。

<私たちは、理論文にもとづいて、観察文(初期条件)から観察文(結果)を予測する。その予測された観察文を、現実の観察文でチェックする。このチェックに基づいて、理論文を維持したり修正したりする。これを繰り返すことによって、安定した理論文を得て、最終的にそれを公理系にまとめる。>

この説明を変える必要はないのですが、カルナップの『物理学の哲学的基礎』に依拠して、特定科学の公理体系と観察文の関係をもう少し詳しく考えたいと思います。

*「観察可能なもの」と「観察不可能なもの」の区別

 カルナップは「観察可能なもの」と「観察不可能なもの」の区別は、哲学者と科学者によって異なると指摘します。哲学者は、例えば、摂氏80度の温度とか、93.5ボンドの重さを観察可能なものとは考えません。なぜなら、それらは直接的に知覚できないからです。直接的に知覚できるのは、水銀柱が80のメモリを指していること、秤の針が93.5を指していることなどです。これに対して、科学者は、簡単な手続きで測定できるこれらの量を観察可能なものと考えます。

 「観察可能なもの」と「観察不可能なもの」の区別は哲学者と科学者にとってこのように異なるのですが、しかし、どちらにとっても、この区別は明確に線引きできるものではなく、暫定的なものです。カルナップは、「この連続体を区分するどんな鮮明な線も引くことはできない」(カルナップ『物理学の哲学的基礎』(沢田充茂、中山浩二郎、持丸悦郎訳、岩波書店、1968、p. 232)と言います。彼によれば、哲学者にとっても科学者にとっても「観察可能なものと観察不可能なものとを区別する線は、高度に恣意的である」(同所)。

 この区別に基づいて、カルナップは「経験法則」と「理論法則」の区別を次のように導入します。

*「経験法則」と「理論法則」の区別

「経験法則は感覚によって直接的に観察可能であるか、あるいは比較的簡単なやり方で測定しうるか、そのいずれかの用語を含む法則である。」これは、「観察や測定によって見いだされた結果を一般化して獲得されたもの」(同所)です。例えば、「全てのカラスは黒い」「気体の圧力、体積および温度を関係づける法則」「電位差、抵抗および電流の強さを関連付けるオームの法則」などです。これらの経験法則は、「観察された事実を説明したり、未来の観察可能な事象を予測したりするのに使われる」(同所)ものです。

 これに対して、「理論法則」は、観察不可能なもの、「分子、原子、電子、陽子、電磁場や、そのほかの簡単かつ直接的方法では測定できないような諸存在者」(同訳、233)についての法則です。

「経験法則は観察された事実を説明し、また[観察可能であるが、まだ]観察されていない事実を予測するのに役立つ。同じようなかたちで、理論法則は、すでに定式化された経験法則を説明し、新しい経験法則の導出を可能にするのに役立つ」235

「経験法則は個々の事実を観察することで正当化できる。しかし、理論法則を正当化するには、それと対比できるような観察はすることができない。なぜなら、理論法則で言われている諸存在は、観察不可能なものだからである。」235

#反証主義あるいは予測誤差最小化メカニズム((the prediction error minimization mechanism))

理論法則は、「事実の一般化」ではなく、「仮説」である。理論法則から導出された経験法則の験証が、「理論法則の間接的な験証をあたえる」(同訳237)。つまり、理論法則は、経験法則によってテストされます。また経験法則も観察報告によってテストされます。これは、単称命題から全称命題を導出できないということ、また、観察報告には全称量化表現が含まれていないということのためです。

このような反証主義は、カテゴリー「人はなぜ問うのか」の49回~62回で論じた、ヤコブ・ホーヴィ(Hohwy)著『予測する心』(原著2013)(佐藤亮司監訳、太田陽、次田瞬、林禅之、三品由紀子訳、勁草書房,2021)の「予測誤差最小化メカニズム」に似ています。ポパーの反証主義は、この予測誤差さ最小化メカニズムの一部として理解できるだろうと思います。つまり、予測誤差最小化メカニズムが、理論法則と経験法則の間、経験法則と知覚報告の間、知覚報告と知覚の間、知覚と感覚刺激の間、などに働いていると考えることができます。 ところで、理論法則と経験法則をこのように関係づけるためには、「対応規則」によって理論語と観察語を結びつける必要があります。これについて次に論じたいと思います。語の意味についてのこの議論は、パラダイム論に関わってきます。

118 誤り発見 (finding a mistake) (20240514)

[カテゴリー:問答の観点からの認識]

*誤り発見

これまでの議論では、ゲーデルの不完全性定理を考慮することを忘れていました。

<論理学や公理系を持つ特定科学では、公理系によって、用語の意味を完全に規定できる>とこれまで述べてきました。しかし、完全性が証明されている命題論理と一階述語論理については、これが成りたちますが、これより複雑な公理系については、これは成り立ちません。なぜなら、ゲーデルの不完全性定理によって、真であるけれども定理とならならい文(式)があり、その文(式)の使用法は、公理系では決定されていない、ということが証明されたからです。このゲーデルの不完全性定理を考慮するとき、論理学と数学と(公理化可能な)特定科学についてのこれまでの議論を修正する必要があります。ただし、これについての考察は、手短に済ますことができないので、現在の進行中の話を区切りの良いところまで進めてから、不完全性定理の考慮に戻りたいと思います。  区切りの良いところとは、特定科学の公理系の話、公理化できない科学の文の意味と真理性の話、日常言語の意味と真理性の話、を問答推論の観点から検討して、それを真理の定義依拠説と関係づけて、原子論的意味論ではない仕方で、真理の定義依拠説を擁護することです。