173 三角測量と時間(Triangulation and Time)(20260419)

[カテゴリー:問答の観点からの認識]

前回のべた客観的な時間と主観的な時間はどう関係するだろうか。

主観的な時間とは、主観によって構成された時間、表象された時間である。それに対して客観的時間とは、構成する時間、表象する行為が行われる時間である。そして、主観的な時間関係(前後関係、同時関係)は、主観的表象と同様に、間違いの可能性を持つ。このように考えるとき、客観的時間が、主観的時間よりも基底的であると思われるかもしれない。しかし、私たちの認識がデイヴィドソンのいう「三角測量」として成立するのならば、時間認識もまた三角測量として成立するだろう。

主観的時間を個人的主観的時間と間人格的(interpersonal)主観的時間を分けるならば、三角測量によって成立する時間認識は、間人格的時間認識になるだろう。今回はこれを説明したい。

#三種類の知識

デイヴィドソンはまず、知識を次の3つに分ける。

自分の心についての知識「自分が何を考え、欲し、意図しているか、また私の感覚がどのようなものであるか」の知識

対象についての知識「世界内の対象の位置や大きさや因果的性質」についての知識

他者の心についての知識「他の人々の心の中でおこっている事柄」についての知識

この三種の知識の関係を、従来は、次の順序で考える。<まず、自分の心についての知識が無媒介に成立する。次に対象についての知識が成立する。次に他人の行動の知識が対象についての知識の一種として成立し、それに基づいて他者の心についての知識が成立する。> しかし、デイヴィドソンは、<これらの三種の知識は、どの知も他の二種の知に還元されず、どの知も成立のために他の二種の知識を必要とする>と主張する。これの論証の中心は、(大雑把なまとめ方になるかもしれないが)次のようなことである。

すべての知識は、それが有意味であるためには、言語の規則に従っている必要があり、そのことを証明するには、他者とのコミュニケーションを必要とする。したがって、すべての知識は、自分の心の知識と他者の心の知識をする。他者の心の知識は、他者の行為の知識を必要とするが、それは対象についての知識の一種であるので、すべての知識は、対象についての知識を必要とする。

#知識の「三角測量」の定義

デイヴィドソンは、「三角測量」について次のように説明する。

「二つの視点があって初めて、思考の原因に場所が与えられ、ひいては、思考の内容が定まる。それはある種の三角測量とみることができる。つまり、二人の人物の各々は、一定の方向から流れ込む感覚刺激に別様に反応している。刺激が流れ込んでくるさいの通路を外部へ引き延ばすと、その交点が共通の原因である。二人の人がお互いの反応(言語の場合なら、言語的反応)に気づくとするなら、各人は、それらの観察された反応を、自分が世界から得た刺激と結びつけることが出来る。こうして共通の原因が特定される。これによって、思考と発言に内容を与える三角形が完成する。しかし、三角測量のためには、二人が必要である。」(デイヴィドソン『主観的、間主観的、客観的』清塚邦彦、柏端達也、篠原成彦訳、勁草書房、p. 328)

知識の「三角測量」とは、ある人物A のある対象Oについての、知識が成立するためには、別の人物Bがその対象Oについて同じ内容の知識を持つ必要があるということである。AとBの二つの視点から同一対象Oを認識しその二つの認識が一致すること、あるいは整合的であることが、彼らの認識をより確実なものにするということである。

#時間認識の三角測量と心の社会   

ここで、世界の認識が、対象Oのある変化の認識だとしよう。その変化は、客観的な時間経過であり、その変化の認識は客観的時間経過の認識である。

この場合に、Aが、対象Oの時間的変化を認識するとき、Oの時間変化は、Aが認識している変化の時間であり、主観的時間である。Aにとっては、Oの客観的時間変化とOのAにとっての主観的時間変化は、同一である。この同一性を客観的なものにするには、他者BのOについての認識も、Aの認識と一致する必要がある。Aがこの一致を確認するためには、Aは、BがOの時間変化をどのように認識しているのかを、認識する必要がある。

 Aが、<Oの客観的時間>と<Aのその認識>と<Bのその認識>が一致する、ないし整合的であると理解するとき、Oの客観的時間は、OとAとBが共に属する共通の時間である「間人格的時間」の中に成立する。

デイヴィドソンは、次のように、私たちの知識は「心の社会」の中で成立するという。

「私が正しければ、我々の命題的知識の基礎は、非個人的なもの(impersonal[非人格的なもの]なものにではなく、人々が共有しているもの(interpersonal[間人格的なもの])なものにある。たとえば、我々が、他人と共有している自然的な世界に目を向けるとき、我々は自分自身との接触を見失うわけではなく、むしろ、自分が心の社会の一員であることを承認しているのである。もしも、他人が何を考えているかがわからなければ、私は自分自身の思考をもつことも、したがってまた自分の思考の内容を知ることも出来ないだろう。もしも、私が、自分が何を考えているかを知らないならば、私には、他人の考えを推定する能力がないことになるだろう。他人の心を推定できるためには、私は他人と同じ世界に住んでいなければならず、その世界の主だった特徴(価値をもふくめた)に対する反応を共有していなければならない。それゆえ、世界について客観的な見方をしても、自分自身との接触が見失われる虞はない。三種類の知識は三脚を為している。足が一本でもなくなれば他の2本も立ってはいられない。」(同上訳339)

知識が心の社会の中で成立するのならば、客観的時間も主観的時間もまた心の社会の時間、「間人格的時間だといえるだろう。