[カテゴリー:『問答の言語哲学』をめぐって]
<論理的語彙と疑問表現が、それ以外の言語表現の意味の明示化すること>について、これまで(18回から30回まで)説明してきました。ここから、<論理的語彙と疑問表現が、事実を明示化すること>について検討したいとおもいます。
とりあえずは、論理的語彙によって事実の明示化(解明)ができることを確認しましょう。例えば「これは青リンゴです┣これはリンゴであり、かつ青い色です」という推論は、青リンゴの定義ではないとしても、青リンゴがどのような性質を持つのかを明示化しています。その意味で、「これは青リンゴです」のこの下流推論は、青リンゴに関する事実を明示化しています。このように実質的推論において使用されている論理的語彙(この例では「かつ」)は、事実の明示化という機能をもちます。
では次のような論理的に真なる命題はどうでしょうか。p→p、p∨¬p、¬(p∧¬p)、など。これらの論理的に真なる命題は、pがどんな内容の物であっても真となります。したがって、これらによって事実を明示化することはできないと考えられることがおおいです。例えば、カルナップは、次のように言います。
「いったん論理法則における用語の定義が理解されると、この法則が世界の性質とはまったく無関係なやり方で真でなければならない、ということが明らかになる。それは必然的な真理であり、また哲学者たちがしばしばいうように、すべての可能な世界に通用する真理なのである。」(カルナップ『物理学の哲学的基礎』沢田充茂、中山浩二郎、持丸悦朗訳、岩波書店1968、原書1966、p.10)
「このことは、論理学の法則と同様に数学の法則についても当てはまる。…「1+3=4」という法則の真理性は、これらの意味から直ちにでてくる。…3次元のユークリッド空間は、一定の基礎的条件を満足する順序付けられた実数の3つ組の集合として、代数学的に定義することができる。しかしすべてこれは、外的世界の性質については何も扱ってはいない。群論の法則やユークリッド的三次元空間の抽象幾何学の法則が成立しない、可能な世界は存在しない、というのは、これらの法則はそれに含まれている用語の意味にのみ依存し、わたくしたちがたまたま存在している現実的な世界の構造には依存しないからである。」(同訳書、p.11)
「その代価とは、論理学と数学の言明がこの世界についてなにも語らない、と言うことである。わたくしたちは、3たす1が4であることを確信しうる。しかしその理由は、このことがどんな可能な世界にでも通用し、わたくしたちが住んでいる世界について、何も語りえないからである。」(同訳書、p.11)
確かに、論理的に真なる命題は、世界がどのような状態であっても真となります、言い換えるとすべての可能世界で真となります。そこから、これらは世界の状態について何も語っていない、というのです。カルナップのこの考えは、おそらくウィトゲンシュタインが『論理哲学論考』で論理学、数学の命題をトートロジーとみなし、「無内容(sinnlos)」とみなしたことに由来するのだろうと思います。
前回私は、<p┣pという同一律は、pの命題内容に関係なく成立することから、同一律がpの意味の明示化には役立たないと考えるのではなく、同一律はpの意味を作り上げているのであり、その意味でpの意味を明示化している>、と見なすことを提案しました。
これと同じように、<p┣pという同一律は、世界の状態にかかわらず、つねに成り立つことから、同一律が、事実の明示化には役立たないと考えるのではなく、同一律がpという事実を作り上げているのであり、その意味でpの事実を明示化している>、と考えることができます。たしかに、トートロジーの命題は、ある事実を他の事実から区別する事には役立ちません。しかし、それは事実についての基本的な性質、ないし事実の存在の仕方を明示化していると考えることも出来るのではないでしょうか。
以下の考察のために、この二つの理解に、トートロジーについての「無内容性」理解と、「有意味性」理解という名前を付けることにします。
次回から、このどちらが正しいのかを、考えたいとおもいます。