つかの間の山の中の思索でした。
久しぶりなので、前回の復習からはじめます。
「個人的な人生に関する私的な人生観」の信念形式である
①「私は、私の人生について、pと考えて、生きたい」
の場合でも、このpの内容が他者から批判されることはありえます。
これが批判されたときの答えは、次の二つに一つです。
1、「私は、pについて議論するつもりはなかったのですが、あなたの反論は
間違っていると思うので、答えましょう。」
このように答えるならば、Xさんは、pを私的な人生観としてではなく、人生論として扱っていることになります。
2、「私は、pについて議論するつもりはありません。たとえあなたの反論が
正しいかどうかを自分で吟味しようとも思いません。私はpを信じてい
ます。」
私的な人生観①の表明が可能であるためには、この2の返答が可能でなければなりません。2の返答か可能かどうかは、pの内容に依存するように思われます。そこで、問題は、
「2の返答が可能である場合と不可能である場合のpの内容の違いを、一
般的に定義するとどうなるでしょうか」
ということでした。
以上が、前回の復習です。
他者に危害を加えるかどうかが、判別基準でしょうか。
自分の人生について、他者に危害を加えない方針を主張することが、私的な人生観で、自分の人生について、他者に危害を加える方針は、私的な人生観ではないのでしょうか。
もし「ひとに認めて欲しかったのに、誰も認めてくれないから、私は社会に復讐するのだ」と考えている人がいるとしたら、それは他者に危害を加える方針なので、批判されてしかるべきです。「社会の誰も君のことを認めてくれないとしても、それを理由に社会に復讐するというのは、飛躍し過ぎではないですか」と批判されて、その人が「私の考え方がおかしいとしても、その責任は社会にあるのだから、いまさら社会からとやかく言われたくない。」と開き直ったらどうしたらよいでしょうか。つまり、彼のとの議論が、理論的な議論にならないとしたらどうでしょうか。そのとき、彼のその主張は、議論可能な哲学的人生論であるとは、いえないだろうとおもいます。それは彼の私的な人生観だ、と言う方があっているような気がします。
つまり、他者に危害を加えるかどうかで、哲学的な人生論か、私的な人生観か、を分けることには無理があるようです。
どこか変ですね。どこかで、議論が間違っているのでしょう。
もう一度やり直しましょう。
哲学では、何度でも最初からやり直すことが必要です。
(変な話かもしれませんが、<行き詰まっても、何度でも最初からやり直すことができる>ということも、哲学の楽しさの一つかもしれません。それは、楽しさでなく、気楽さ、と言うべきかもしれません。最初からやり直しても、誰にも迷惑をかけません。哲学は、我々を身軽にするのです。)
ということで、久しぶりなのに、今日はここまでです。
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