[カテゴリー:日々是哲学]
映画『この世界の片隅で』の英語タイトルを知ったとき、少し驚きました。それが“In This Corner of the World”だったからです。これは直訳すれば「世界のこの片隅で」となります。私なら“In a Corner of This World”としていたでしょう。その理由は、「この世界」という言葉が、「あの世界」(「あの世」)と対になっていると考えるためです。これは仏教用語です。つまり、「この世界」という表現には、この世界は諸行無常の世界である、という意味が暗黙的に込められていると思っていました。(実際の英訳タイトルにも、また理由があるのだろうと思います。私が想定していた訳では、英語圏の人にはうまく伝わらないのかもしれません。)
私たちは、諸行無常を生きることができるのでしょうか。大乗仏教圏に住む者にとっては、諸行無常は空気のように自明な事柄であり、私たちは日々そのような世界を生きているのではないでしょうか。しかし、ハーバーマスならば、おそらくそのような世界で生きることはできないと言うでしょう。
現代哲学においては、あらゆる知が可謬的であることは、自明なこととして認められています。ハーバーマスもそれを認めますが、しかし彼は同時に、可謬主義を生きることはできないと言います。
「反省的な態度をとったときのわれわれは、いっさいの知が可謬的であることを知っている。だが、日常生活においてわれわれは、仮説だけで暮らしていくことはできない。つまり何から何まで可謬主義的な態度で生きていくことは無理である。」(ハーバーマス『真理と正当化』三島憲一、大竹弘二、木前利秋、鈴木直訳、法政大学出版局、p. 308)
「素人や専門家が用いている知を確実でないと思い続けるなら、あるいは、さまざまな事物の製造や課題の遂行に使用されている前提を真でないと思い続けるなら、われわれは橋に足を踏み入れることもできなければ、車を使うことも不可能だし、手術に身を任せることもならず、おいしく調理された料理を楽しむことも無理となろう。」(同書、p. 308)
そうでしょうか。橋は絶対に落ちないと信じていなくても、私たちは橋を渡るのではないでしょうか。私たちは、不確実な世界、可謬主義を生きざるをえないし、生きることができるのではないでしょうか。私たちは、諸行無常を生きているのではないでしょうか。
これに対して、ハーバーマスは、可謬主義を生きることができない理由を、次のように言います。
「いずれにせよ行為確実性を遂行する必要性は、真理への原則的留保を無理なものとしている。[…] 実践においては「真理」が行為確実性を支えるのに対して、そうした諸々の「真理」は、ディスクルスにおいては、真理請求のための準拠点を提供してくれている。」(同書、p. 308)
この行為確実性は、(ハーバーマスは言及していないのですが)アンスコムの言う実践的知識の確実性のことだろうと思います。人は「何をしているの?」と問われたとき、観察なしに即座に、例えば「コーヒーを淹れています」のように答えることができます。この答えが、「実践的知識」です。ハーバーマスの言う「行為確実性」というのは、この実践的知識の確実性のことだろうと思います。行為するときには実践的知識が可能であり、それが不可能であるとすると、行為できないでしょう。「何をしているの?」と問われたり自問したときに、答えられないとしたら、行為を続けることは不可能になるからです。その意味では、実践的知識は確実です。
しかし、(アンスコムも認めるように)このような実践的知識は間違えることもあります。例えば、コーヒーを淹れているつもりだったのだが、ココアの粉を使っていたということがありうるからである。おそらくハーバーマスもこのような間違いの可能性を認めるだろう。しかし、行為している時には、その行為の知を可謬的であると考えることはできないと言うのだろう。
これに対して、私は、実践的知識の可謬性を意識しつつ、行為することは可能であると思います。
このことを明確に証明するにはどうしたらよいでしょうか。